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マラッカ航海日誌補遺

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豪ホテルで警察官、ジャカルタ知事の部屋に合鍵で侵入

6月1日20時23分配信 読売新聞


 【ジャカルタ=佐藤浅伸】オーストラリアのシドニーで、インドネシア・ジャカルタ特別州知事が宿泊していたホテルの部屋に警察官が合鍵を使って侵入、怒った知事が豪政府に謝罪を要求し、両国関係が悪化する事態となっている。

 スティヨソ同州知事によると、5月29日夕、部屋で休んでいたところ、警察官2人がノックもせずに入り、1975年の東ティモール侵攻作戦時に豪州人カメラマンら5人が死亡した事件に絡んで、出廷を要求された。豪州の地元州知事の招待で訪問していたスティヨソ知事は予定を切り上げて帰国、30日の記者会見で「こんな侮辱はない」と怒りをぶちまけた。

 インドネシアのユドヨノ大統領も不快感を表明、ハッサン外相も駐インドネシア豪大使を呼んで抗議した。

最終更新:6月1日20時23分

読売新聞
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ジャカルタからクアラルンプルへ

スカルノハッタ空港は平面的でわかりやすい。国際線はTerminal2。

イミグレまで来て大失敗に気づく。

インドネシアのビザ期限は「30日」。ところがKLの旅行代理店が設定した出発日は、行きが「1月4日」で帰りが「2月3日」。旅行代理店が「1ヵ月」と勘違いしたのか私が「1ヵ月以内でいちばん遅い日」といったのか、そのへんはよく覚えていない。とにかく1月は31日まであるので2月3日は「31日目」になる。

1日のオーバーステイ。イミグレ役人に指摘されてはじめて気づく。リコンファームのときに気づくべきだった。

後ろの事務所に行き20ドルの罰金。これも全部役人の懐に入るのだろう。イミグレ役人はいくら頼んでみても見逃してくれない。ルピアで払うと言うと20万ルピアだというのでそんなことはないだろうと思い、19万ルピアまで負けてもらう。もっと泣いてみてもよかったとちょっと悔やまれる。作業自体はすぐに終わる。書類を作るわけでもなく、ただ普通のスタンプを押すだけである。領収書もくれなかった(請求もしなかったが)。パスポートに何か書き込んだりもしない。

インドネシアはオーバーステイにはうるさいらしい。観光ビザは1ヵ月までしか取れないので、帰りの飛行機の出発日には気をつける必要がある。

外国にオーバーステイをするのはこれが初めて。「オーバーステイ」というのはタイ旅行者みたいで好きではない。

さらに、搭乗の時のX線検査で、空港役人に今まで一度もチェックされたことのない日本で買って持ってきた小さなハサミ(刃渡り5センチぐらい)を見咎められてケチをつけられる。チェックインカウンターのところに戻って荷物を全部預けろという。

「お前にやるよ」と言って放りだしたら(ネパールだと役人がすぐにポケットにしまいこむが)役人は当惑していた。

いったんは「やるよ」と言ったが日本製のハサミでちょっと惜しくなったので撤回し、ハサミだけ別にして送ってくれないかと頼んでみた。が、役人はダメだと言い張る。

別に送ることはできるはずだろ、やれよ、と言ってもめていると、ちょうどいい具合に白人客が来て救われた。

こういうことでもめているのを白人客に見られたくなかったのだろう。空港役人の態度が急に変わり、マレーシア航空の女性職員が呼ばれた。

女性職員がそのハサミをまるでデパートの商品のように「マレーシア航空の包み紙」で包み、別にして送るのかと思いきや、そのまま私に手渡した。

結局、「紙で包んだ」だけで「凶器」が安全なものに変わったというわけである。

ただケチをつけるためだけのチェックである。しかし、日常のこういう嫌がらせを通じて役人と言うのは自分の利権を保持しているのだろう。

他方、周りにいたインドネシア人客たちは、インドネシア人によくあるように、こういう状況を見ると役人(空港職員)の側について他人のことに口を挟んでくる。しきりに私に説教しようとし、ハサミは機内に持ち込んではいけないものであることを教えてくれるのだ。その姿は本当に頭が悪そうである。

カッターナイフも入っていたがチェックされなかった。まだ一度もチェックされたことがない。ハサミがたまたま開いていたところがX線に映ったのがまずかったようだ。爪切りもチェックされたことがない。

ライター・乾電池はネパールでしばしばチェックされた。役人が「ライターや乾電池を持っているだろう、持っているはずだ、出せ」と言って迫ってくる。そして渡すとすぐにポケットにしまいこむ。

ただネパールやミャンマーではNo!と大きな声で言い、「てめえは金が欲しいのか、何で日本人にだけそういう言いがかりをつけるんだ」という感じで喚きちらすと、OKOKといって何もなかったことになることもあった(今日のように)。

30分ほど遅れて4時15分ごろ出発。

マレーシア時間午後7時半ごろ(インドネシア6時半)、KLに着。イミグレは今回は混んでいなかった。

5日。KLCC伊勢丹に行きLevi's512を買う。512は日本ではもう作られていないと聞いていた(ちょうど新宿伊勢丹だったが)。

ジャカルタ 2/2

2月2日。バンドゥンのホテル・チトラCitraを正午前にチェックアウト。

チトラの前の道から23番のアンコタ(Ciroyon-Cikudapateuh)で、ルウィ・パンジャンLeuwi Panjangバスターミナルに向かう。このアンコタは直通でなく途中で別のアンコタに乗り換えなければならなかった。

ルウィ・パンジャン・バスターミナルではあまり人が寄ってこなくて、却って当惑した。最初ジャカルタ行きだというバスに案内されたが、Kp.ランブータン行きではなかった。

ジャカルタ、カンプン・ランブータン・バスターミナル行きの、冷房の効いた座席にゆとりのあるバスを見つける。3万と言う掛け声で乗ったがやっぱり4万5千だった。

バンドゥンを出てしばらくは景色が美しいが、ジャカルタに近づくにつれてつまらなくなり、やがてひどい渋滞に巻き込まれる。

ジャカルタが洪水であることはこのときは知らなかった

午後5時ごろになってようやくジャカルタ着。対向車線の道路が水没しているところがあった。水の中を車が走っている。カンプン・ランブータン・バスターミナルに着く。

カンプン・ランブータンで、パサル・バルPasar Baruに行く17番のバスをひたすら待つ。夜になると怖いが、タクシーもあまり見ないのでとにかく待ってみることにした。。。。と思ったが、人によって言うことがマチマチで、17番のバスは来るという人と来ないと言う人があり、来ないと言う人のほうが多いようだった(実は彼らが言っていることの意味はよくわからなかったが、内容全体を腹で捉えるとそんな感じだった)ので、結局タクシーを使うことにする。

しかしブルーバードタクシーがいない。普通のタクシーに乗る。運転手は英語を話したが、非常に非常に感じが悪い。何人だとかインドネシアに来た目的は何かとかイミグレ役人の尋問のようなことをいい怒鳴り声を上げる。日本人だというとシメタという感じでニヤッとした(バックミラーで顔が見えていた)。有料道路に来ると必ず余分に金を取ろうとする。1万ルピアまとめて渡せと脅すような声を上げる。道路料金の釣りを渡せというとWhy!?だと。

このタクシーは途中で放棄する。あまり感じの悪いタクシーは早めに降りてしまったほうがいい。メータータクシーだが、料金3万ルピア弱のところ5万ルピア札を見せると釣りがないと言いながら札だけもぎ取ろうとする。おそらくそのままとって釣りをくれないか、どこかで両替して釣りをくれるとしても余分に取ろうとするだろう。そういうときは怒ったフリをして、料金を一銭も払わずにさっさと外に出てすたすたと行きかけるというのも良い。この日はその手を使った。そうしたら急に運転手の態度が変わり、なかったはずのつり銭がすぐに出てきて、なぜか1000ルピーくらい余分に釣りをくれた。

ちょうど良くブルーバードグループのタクシーがあり、乗り換えることが出来た。ブルーバードのタクシーは運転手の態度も良い。英語は話さないが、有料道路はそのつど請求しその釣りは500ルピアまできちんと渡してくれる。

大変な渋滞が続く。夜8時過ぎになってようやくパサル・バルPasar Baruに到着。前回も泊まったホテルAlia Pasar Baruにチェックイン。ブルーバードのタクシー代はAliaまで2時間ほど渋滞の中を走っても7万ルピアぐらいだった。しきりにソーリーを連発する。悪いので少し多めにやった。

Aliaのスタンダード・ルーム(21万5千ルピア)に入る。金曜日の晩だったがどのタイプの部屋も空いているようだった。出入りする客も多い。部屋数は多いようである。Aliaも隣のホテル・パサル・バルも満室だったらこの渋滞の中どうしようかと内心心配していたのでホッとした。

フロントクラークは前回と同じ人間だったが、「このホテルはレディー(連れ込み)禁止」だと念を押す。俺のことを覚えてないのかときくと、覚えていると言う。よほど女を連れ込む日本人客が多いのか?

Aliaに一台だけあるインターネットは故障らしく使えなかった。

午前3時ごろ、胸のあたりに水が落ちてきて変な夢を見て目を覚ます。

ベッドの真上から雨漏りが始まったところだった。午前0時ごろ眠ったときには雨漏りはしていなかった。フロントに電話して部屋を変えてもらう。フロントは人は変わっていたがちゃんと起きていた。部屋はすぐに変えてくれた。しかしソーリーのひとことも言わない。

このホテルAliaは新しいが音は良く響くし、建付けが悪いのかもしれない。

新しい部屋に落ち着くと午前4時近く、眠いが目が覚めてしまった。やがて隣のマスジッドのアザーンが鳴り始める。

3日。午前6時ごろにレストランで無料の朝食をたっぷり食べてから眠る。

朝10時ごろに目が覚めた。間に合った。

3日のジャカルタポストによれば、インターネットが不通になっているのも洪水のためと言うことである。主要な電話交換所の近くの電線が切れたため自家発電に頼らざるを得なくなり、固定電話のサポートで手一杯になったためとか書いてある。

早めに空港に向かうことにする。ホテルの前でブルーバードグループのタクシーを待つ。道路は依然あちこちで冠水している。通れないところもあるらしく遠回りしていくようだったが、結局途中でブルーバードのバスに乗り換えさせられる。これが空港まで2万ルピア。最初からそういう話だったようだが、インドネシア語がわからなかった。

昨日カンプン・ランブータン・バスターミナルでつきまとってきた見るからに下心ありそうなある男は、私がインドネシア語がよくわからないと見て「あんたインドネシア語が出来ないね(ニタ)」と言ってシメタという顔をしさらに手玉に取ろうという態度をあらわにした。私があわてて「ビサ、ビサ(できる)」言って開き直ると、今度は「スディキ(少し)だろ?」とニヤッとした。

インドネシア語は、インドネシアという広大で多様性を持つ世界の「国際共通語」なのかもしれない。そして、ジャカルタで「あんたインドネシア語ができないね」と言う人は、ちょうどシンガポールで「キミ英語が出来ないね」という人と似たような感覚で言っているのかもしれない。もっとも下心はかなり異なるだろうが。

バスの通り道もあちこちで水没している。もちろんそういう場所は徐行。全体的に渋滞が続く。

11時ごろホテルを出て空港に着いたのが1時半ごろ。2時間半ほどかかった。

バンドゥン 1/30

午前10時ごろチパナスCipanasのポンドック・プサカPusakaをチェックアウト。アンコタでガルッGarutのアンコタターミナルのようなところまで行き、そこでバスターミナルに行く別のアンコタに乗り換える。

バスターミナルで降りるとすぐにバンドゥンのチチャフゥムCicaheumバスターミナル行きのミニバスが見つかる。

バンドゥンへ行く途中、チビルCibiruという町を通る。いろいろなところをまわっていてなかなかバンドゥンに着かない。

午後1時ごろようやくチチャフゥム・バスターミナルに着。ジャラン・ガルドゥジャティGardujatiに行くという06番のアンコタに乗る。しかし、ガルドゥジャティだといって降ろされたところはガルドゥジャティではなく、結局もう一度乗り換えることに。

午後2時過ぎ、Jl.ガルドゥジャティのホテル・チトラCitraにチェックイン。

Citraのおっちゃんの車(ぼろぼろのダイハツのミニバン)でJl.Sundaにあるマレーシア航空の事務所まで乗せてもらい、KL行きの航空券をリコンファームする。ここはホテル・イスタナやナリパンからなら歩いて行ける。

その後、Citraから歩いていけるところにある新しく出来た私立病院Sentosa Bandung International Hospitalに連れて行ってもらう。この病院は鉄道駅の近く。

頭の傷の糸を抜いてもらう。Garutの診療所では確かに4針と言っていたが、糸は3本だった。

Sentosaはとても清潔で近代的な病院。KLのパンタイ・メディカル・センターなどよりずっと清潔で設備もよさそうに見える。

夜、チトラのロビーで30歳くらいに見える日本女に会う。インドネシア人の平均から見てもかなり色黒な日本語を話す若いインドネシア人男を連れている。

一緒に旅行しているが「カップルではない」という。確かにそのようだ。

女のほうはバリ島在住の日本人だという。タバコをすぱすぱ吸い、「インドネシア語も英語もしゃべれない」と平然と言う。これには驚いた。

私が一人で旅行しているのをよほどすごいことのように言い、目を見張るようにして「英語はなせるの?」と聞く。「いやいやぜんぜん」と答えるほかない。

バリ島に「日本人社会」があって、その中にどっぷり漬かってその中だけで生活しているのだろうか。

私は在外日本人社会には肯定的だが、そのことはともかくとして、インドネシアに住んでいるのにインドネシア語がほとんどできず英語もダメというのでは、自分の利益も自分で守れないのではないか?トラブルが起きたら全部、今日連れていたような日本語の出来るインドネシア人や日本人仲間にお任せするのだろうか。

敗戦まではアジア各地に日本人社会があり、それらは日本民族の財産だったはずだが、敗戦とともにほとんど消滅してしまった。いろいろな理由があるのだろうが、しかし、たとえば在外中国人社会やインド人社会は、中国やインド本国が破綻したり国家滅亡の危機に瀕したりしたからといって消滅することがあるだろうか。まずあり得ないだろう。この対比から教訓を学ぶ必要はあるのではないか?

私は、はっきり言って、この女のような日本人女のシマリのなさが気持ち悪くて仕方がない。

インドネシア男のほうは、肌だけは白いこの女といつかヤレルかもしれないし日本に行ったり日本人ネタで金を稼ぐチャンスもあるかもしれないと思って、こんなつまらない女と一緒に「カップルでない」旅行をして面倒を見てやっているのだろうか。

確かに部屋も別々でカップルではないようで、ガイドとして金を払って雇っているのでもないようで、ただの「お友達」のようである。そのあとこの男がロビーなどでひとりで待たされているのをしばしば見かけた。女といるときと一人でいるときとでは表情から何から違う。日本人女がいるときには明るい表情を作って私にも話しかけてきたりするが、一人でいるときはふてくされた顔をして私を見ても一言も口をきこうとしない。

インドネシアを旅行するには、少なくともインドネシア語をしゃべる意志・学ぶ意志は必須であろう。これはタイにおけるタイ語の比ではない。

金も払わずヤラセもせず、通訳も全部おまかせして、ただの「お友達」として困ったときに利用だけして一緒に旅行できるという考えでやっているらしい。

私はこれは、戦後日本固有の空想的自由主義、空想的個人主義の実践以外のなにものでもないと思う。学校教師などが教え込んでいる、あいまいな個人主義と「性善説」とが奇妙に都合よく結びついた空想的な人間関係観をそのまま妄信し、実践しているだけのものと思われて仕方がない。

このような都合のよい人間関係が現実的であるはずもなく、いつかその「借り」を返さなければならない時が来るだろう。本人が手ひどい目にあって現実に直面し「借り」を返すことになるというのなら良い。しかし問題は、日本人全体が、あるいは日本全体が、量産されたこの種の空想家たちの妄動の「借り」を返さなければならないことになる恐れがないとはいえないことである。

海外で見かけるこの手の日本女の特徴をひとことで言ってしまうと、「中途半端に××(2字伏字)なこと」である。○○(2字伏字)は現実に財になるから論ずるに値する。もっとハッキリと××(2字伏字)だったらもうすこしマジメな生き方を模索するかもしれない。この程度の女でも日本人女なら海外ではそれなりにいい思いが出来るのだろう。

31日。

駅の北にあるバンドゥン・インダ・プラザ(ジャラン・アチェから北に入ったところ)の隣にあるインターネット屋に行く。いろいろ聞き歩いて探し当てた。しかしここも日本語IMEのインストールは出来ず、日本語表示は出来るが書けない。非常に遅くて不安定。

ネット屋にいるとたまたま昨日の日本人女が入ってきた。ここはチトラからは遠く離れたところで、宿の人も知らなかったところなのだが、どうやって見つけてきたのか。偶然である。バンドゥンは大きな町なのだが。

夜、宿に帰ると今度は毛唐である。禿げた白人オヤジが来ていた。白人は必ずロビーで自己の空間を主張しようとする。しかし、スタッフは英語は一言も話せない。ローカル客もだいたい同じようなもの。結局うろうろとしただけで誰にも相手にされず部屋に引き下がって行った。こういうところは白人ガイドブックでは「フレンドリーでない」「ツーリストに不親切」などの評価が下される。

2月1日。

昼過ぎまで寝て下に降りると、例の白痴女がインドネシア男とロビーに陣取っていた。白痴女に対するインドネシア人男の気の使いようは大変なものである。外で食事と買い物をして戻る。まだそこにダラッと溜まっていたが、コンビニAlfa Martで買ってきたアイスクリームを食べたかったのでちょっとそこに座る。

聞けば、昨日のネット屋も全部このインドネシア男に聞いてもらい見つけてもらって行ったらしい。この女は本当に、インドネシア語も英語もぜんぜん出来ないようだ。チトラのおっちゃんがインドネシア語の初級文法的なことを教えてやっていた。

確かにこういう男を連れて歩くのは便利なわけだ。しかし、世間の人は「肉便器」などというハシタナイ悪口を言うが、そういう悪口はよくないのである。この女はヤラセもしないで、途上国の男を利用しコキ使っている。これはサクシュではないのか?

こんなことができるのはもちろん、この白痴女がたまたま先進国に生まれて、日本国の威光を背負っているからにほかならない。

ITB(工科大学、イ・テ・ベ)に行ってみることにした。大学の近くにはネット屋があるかもしれない。ダゴDago行きのアンコタでITBに向かう。

ITBの学生が、大学の近く(キャンパスの北側の道を右に行ったところの左手)のK100というネット屋に案内してくれた。日本語IMEが使えた。ブログの更新などをする。

ネット屋に夜11時ごろまでいた。遅くなりすぎて帰るアンコタがない。通りがかるのは郊外に行くのばかりで、スタシオン(鉄道駅)方面に行くアンコタはもうないという。

仕方がないので数キロの道を歩いて帰ることにする。しばらくあるくとスタシオンまで行くというアンコタが見つかる。しかしこういうのは貸切タクシーになりがちである。他に客も乗っていたが。

鉄道線路を右に渡ったジャラン・ブラガBragaの近くで降りる。やっぱり、アンコタ運転手が遠回りしたといって1000ルピア余分に取る。最初は4000ルピア取ろうとしたが3000にさせた(普通は2000)。夜遅かったし実際助かったのであまり争わなかった。バンドゥンの町はずれの夜道は必ずしも安全ではないと聞いていた。

チパナスCipanas 07年1月 その3 怪我

1月25日。

ポンドック・アジサカAjisaka最初の朝、室内で転倒。タイルの室内階段の角で後頭部を強打。

9時ごろ目がさめて寝ぼけ眼でトイレに入ろうとしたら、大家のオバサンがコーヒーを入れたといってノックしたので、出ようと振り返ってちょっと歩いたところの2段のタイルの階段ですべる。少しぬれていた。床も全部タイル。

階段から滑って床に着いた足も滑り、さらに滑って面白いように真後ろに転倒した。右手にコップを持っていたので、それを壊さないようにと気をつけたのが却ってまずかった。後頭部の骨の出っ張ったところがちょうど階段の角に当たる。

2,3分動けなかったが気は失わなかった。ぶつけた後頭部をさすった左手を見ると手のひらが血だらけ。どす黒い赤のねばねばした血ではなく朱色のサラサラした血だった。身を起こしてみると、そのへん血だらけだった。そんなに血が出ていると思わなかったので、やや仰天する。

ちょうど入り口まで来ていたアジサカのオーナーに連れられてアンコタで(自家用車でないところがつらい)ガルッGarutの診療所へ。プレハブというわけでもないが、雰囲気は「野戦病院」のよう。汚い感じのところで黒い処置台にうつぶせ、カーキ色の役人の制服を着た男女3人ほどに囲まれて処置を受ける。

すべてインドネシア語の説明。傷を水とヨードでよく洗ってくれる。局部麻酔らしき注射を打ち、次に「4(epat)針縫う」という。

仕事はさっさと片付けられて、あとは痛み止めと抗生物質をもらうだけ。これで78000ルピア(1000円くらいか)。

処置はそれだけ。レントゲン撮影や破傷風予防注射の接種もない。脳波の検査なんてあるはずもない。処置をしてくれた軍服(公務員の制服)の人たちは、いちおうゴム手袋をしているが、手袋をしたままペンを握り書類を作ったりしている。

もらった抗生物質は、あとでよく見ると「シプロフロクサシン」だった。アジア諸国で下痢から性病まで何にでも使われているようだが、効くのだろうか。最強の抗生剤というふれこみだったらしいが、数年前にネパールで下痢が続いたときには、これを飲んでもティニダゾールを飲んでもまったく効かなかった。気休めだが別系統のZithromaxも自分で飲んでおいた。

後頭部のため傷の状態を実検できないのがつらい。出血はやがて止まる。

ガーゼが糸で傷に直接縫い付けてある。ガーゼにヨードをしみこませてある。夜には歩きまわれるようになった。

首をやられなくてよかった。しかし、不注意でこんな怪我をしたことはショックである。いつ何がおきても不思議ではない。

3、4年前、タイのチェンマイのあるゲストハウスで、やはりぬれたタイルの階段で滑って転倒した時のことを思い出す。タイ人オーナーやスタッフたちはみんな座ったまま見ていて「ハ、ハ、ハ、イープン(日本人)、イープン(が転んだ)」といってせせら笑っていた。白人客の多い宿だった。血は出なかったがかなり派手に転び、猛烈に痛かったのである。そのときぶつけた肘の骨の痛みは最近まで消えなかった。もし転んだのが白人客だったら、彼らはただちに総出でかけよって助け自家用車で病院に運んでいただろう。タイ人とはそういう連中である。

一方、アジサカの人たちは私の怪我を知るとすぐに集まってきてそれなりの手当てをしてくれ、病院にも送ってくれた。クリニックでも英語はまったく通じないので、私に代わって事情の説明をしてくれた。

インドネシアは危険なところも多いし、医療施設もあてにならないが、人間は(白痴やキチガイは多いが)タイ人ほどは嫌な連中ではないといえる。

私の旅行は無意味なものだが、旅行をしているうちに精神的にタフになった面は確かにある。日本にいる間は自分の血を見ることはまずなかったが、近頃ではかなり大量の血を見てもうろたえなくなった。

Liaは今日も店を閉めたまま。

ロータリーの入り口のところにある別の店の女の子に傷を見てもらう。ガーゼが傷に直接縫い付けてあるのがなんとも変なので、これをはさみで切り取ってくれというと、いいよといって同じ店の雑貨売場から売り物のハサミを持ってきたが、ちょっと傷の状態をみて、これは「ベッソ」(明日)だと断言する。そして翌日もう一度頼みにいくと、約束通り売り物のハサミでガーゼだけ切り取ってくれた。

ところで、インドネシア等で中国人が嫌われているのは歴史的な理由からである。すなわち、インドネシアでいえば350年にわたるオランダの植民地支配を通じて、徴税などの現地人に嫌われる仕事を担当させるために中国本土から中国人が「誘致」され、一定の特権を与えられて利用されたという経緯からである。

もっとも、そのような歴史を通じて(近代)中国人の「体質」もまた形成されていったともいえるのだろう。白人とは真正面から対決しては損である、白人に媚びてむしろ利用されることにより、他のアジア人に対する優越的地位とカネを確保することができるという教訓を中国人は学んだのだろう。

だから、中国人の悪ごすい性格は直接にはこの白人による中国人利用に負うていると思う。近代中国人は、白人の茶坊主・徴税人として自己を確立した民族集団なのであり、近代中国人の「反日主義」の淵源が白人の反日主義・人種主義的反日意識にあることはこのことからも容易に推察される。華夷思想的中華思想は共産中国の成立後にむしろ「復古」されたものなのではないか?

そして、東南アジアで中国人がもっとも深く社会の隅々まで浸透しているのがタイである。あまりに深く浸透しているために、ここの中国系はすでにタイ化しているようであり、タイ人は中国化している。タイ以外の東南アジアの国々では(ベトナムは知らないが)、中国人と原住民との境界がはっきりしているがタイではそれがあいまいである。厳密に言語学的には諸説あるようだが、タイ語と中国語が実際に互換性の高い、互いに学びやすい言語であることは確かだろう。タイ人は中国語を容易に習得するし、中国人がタイ語を習得することもやさしいようである。

いわば、タイ人は、自らを東南アジア化したところの中国人なのであり、東南アジアに地方(じかた)役人、徴税人として土着した中国人の典型がタイ人(上層タイ人)に対応するのである。タイが白人の植民地になったかならなかったかはあまり意味がない。なぜなら、中国人にとって東南アジア諸国の「国境」にはあまり意味はなく、むしろ中国人内部の流派・氏族・血脈のほうが大きな意味を持つだろうからだ。

タイ人の白人崇拝の源泉の一つは、アジア全域のスケールにおいて白人の茶坊主、地下(じげ)役人、徴税人として自己同一性を確立し現地に土着した東南アジア中国人の白人崇拝に由来すると見ることもできると思う。本来卑屈な白人崇拝が、「独立王国タイ」においては、「由緒正しいタイ式文化」の一環としてのブランドを得て「制度化」され、タイの立派な国柄にさえなっているが、これも本質的には植民地徴税役人文化としての近代中国文化に固有の白人崇拝にタイ風味を加えたものにすぎないのかもしれない。

いずれにしても、タイ人と(白人の茶坊主・植民地役人として自己を確立した)東南アジア中国人とは、マレー人と中国人、インドネシア人と中国人、などに比べれば明らかに特別の因縁を持つのであり、「シナは嫌いだがタイはマンセー」などという2chあたりの低脳ウヨの滑稽さはあきらかである。しかし、この種の「日本的な脇の甘さ」、「性善説的妄想性」は、日本の現実の国益にとって深刻な問題を含むものであると思われる。

白人は聖書を読んでいる分、日本人よりも植民地支配が上手であることは確かであろう。聖書には異民族(ローマ人)がどうやってパレスチナの支配に成功していたか、その機微が表現されていると思う。福音書でもローマ人はキレイゴトしか言っていない。パレスチナ下層民(キリスト教徒を含む)の憎悪は直接の弾圧者であるユダヤ教官僚・法学者(パレスチナ上層民)に向けられるように仕向けられる。

毎日雨が降る。雨季のようである。

26日。

傷を治すために睡眠薬で夕方まで眠る。

ロータリーの入り口のところのレストラン(ガーゼをハサミで切り取ってもらったところ)に行くと、若い日本人ツーリストが入ってきた。猫背でおどおどきょろきょろとして色白で、店に入ってくる姿はまるで白痴まるだしである。へこへこしていちいち「テリマカシ」を連発する。

日本人は「堂々とする」ことの価値を、学校でも家庭でも教わらない。日本人が海外で馬鹿にされるのもある程度やむをえないのかもしれないと思ってしまった。

海外で日本人にかかわりあいになるのは現実に危険なことが多いから最後まで知らん振りをしていたが、金を払って出るときにちょっと声をかけてみたらやっぱり日本人バックパッカーだった。バンドゥンに帰りたいが帰り方がわからないから教えてほしいという。ここまで来ているのに「アンコタ」も知らない。「テリマカシ」は連発するがバンドゥンへの行き方を聞くインドネシア語は工夫できないらしい。

もっとも、私も旅行を始めたころはあんな感じだったかもしれない。初心のころは必ず日本人と当てられたが、そのうち中国人と間違われるようになり、近頃では韓国人にされてしまうことが多い。

日本は、孤立した文明、一国一文明の日本としての孤独な宿命をもつ。われわれはこの宿命を正面から引き受けていかなければならないと思う。それが日本人としての誇りでもあるはずだ。

決してどんな外国(文化)にも甘えたり、幻想を抱いたり、特定外国に対して個人的友情に比せられるような「友情」を抱いたりしてはいけないのである。外国というものは常に、われわれが主体となって「利用すべきもの」である。外国および異民族の利用の仕方を巧みにし洗練されたものにすることこそが「国際化」ということの本当の意味であるはずだ。日本は世界を相手にこれからも基本的には「孤独」に、闘い続けなければならない国家であり文明である。この日本の宿命を日本人ひとりひとりが忘れてはいけないと思う。

そういえば、チパナスでは乞食を見ない。ジャカルタを出てからこれまで通った町でも乞食はあまり見なかった。

28日。

われわれはいつか必ずみんな死ぬことはわかっているのだが、もしも仮に、いつか死ぬ人間と永久に死なない人間との二種類の人間がいて、自分がどちらに属するかわからないとしたら、どんなに恐ろしいことかと思う。

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