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マラッカ航海日誌補遺

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両陛下、タイなど ご歴訪へ

天皇、皇后両陛下が6月にシンガポール、タイ、マレーシアの三国を約一週間の予定で訪問されることが、27日の閣議で決まった。シンガポールとは今年外交関係樹立40周年にあたる。タイからはプミポン国王(78)の即位60周年記念式典に招待された。(産経新聞より)

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両陛下訪タイには、私は当然反対です。

タイのような汚らわしい国に、陛下が御幸なさるべきではない。
売春婦の群れと奴隷女をはべらすレイシスト白人どもにあふれた国です。
そういう汚らわしいものどもを、陛下のお目にかけることになる。

そもそもプミポンなどはるかに格下です。格下。
薩摩藩・島津家のほうがはるかに格式は高い。
即位60周年の報告に、プミポンが東京へ謁見に来るのが筋。

タイは、プミポン即位60周年に、チャオプラヤ川での「御座船行列」など、政治的ガス抜きも兼ねたバカ騒ぎを用意している。
水掛祭の時と同じで、タイ人もファランも気違い騒ぎをするだろう。

そうなれば天皇どころではなくなる。
教養のない連中なので、日本の天皇の尊さなど理解できない。

そんな騒ぎの中に、両陛下が訪問されるべきではない。
タイはスキップしてミャンマーを訪問されたほうがいいくらいである。

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バルパック

3年ほど前、マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)の支配する村に10日間ほど滞在したことがある。ゴルカから私の足でまる2日歩いたところにあるバルパックという村。とくに危険は感じなかった。私が行ったときは村がマオイストの手に落ちて間もないころで、爆破された警察署の建物が生々しかった。役所も軍隊も警察もなくなっていたが、滞在中はきわめて平穏で、清浄な空気に満ちていた。行政は学校の教師がやっていた。教師の中にはもちろんマオイストのミリシアがいたと思う。常にミリシアに監視されている感じはあった。しかし戦闘員が尋問に来たのは一回だけで、カネも取られなかった。泊めてもらった家にすこし御礼をしただけ。バルパックは標高2000メートルくらいで12月の夜はかなり寒く、星がきれいで娘たちがまぶしかった。

ゴルカの町は政府が支配していてバルパックはマオイストが支配していた。ゴルカからバルパックまでは山の中の一本道。バルパックまで歩く間もゴルカに戻るときも、兵隊にもゲリラにも一度も尋問されなかったので、どこまでが政府の支配地域でどこからがマオイストの支配地域なのかまったくわからなかった。もちろん、普通に会話したつもりの人がミリシアだった可能性はある。

バルパックに行く途中、バウン(ブラーマン)の娘さんに会って途中まで案内してもらった。カトマンドゥの学校に通っているという20歳の女の子。ちょうど自分の村へ里帰りするところだった。両親は立派な家を2つもち、途中にある宿場でバッティ(泊まれるレストラン)を経営していた。彼女の性格はバウン丸出しというか、やたらプライドの高いつんつんした女で、最初は本当に感じが悪かった。狭い山道を歩いているのに、大きな荷物を背負った山の人が前から歩いてきても自分からは絶対に道を譲ろうとしない。平然と真ん中をまっすぐに歩き続ける。自分の身体より大きな荷物を背負ったおじさんのほうが苦労してよけていく。どこかに座るときにも決して人の左には座らない。街着のクルタ・スルワールにゴム草履、手にはハンドバッグをぶら下げて日傘をさし、すごいスピードで山道を登っていく。こちらは杖をつき息を切らしてこけながらようやくついていく。ちょっと休もうといってもなかなか休ませてくれない。休憩する茶屋もどこでも良いというわけではない。「不浄なところ」には入らないようだった。しかし驚いたことに、休憩した茶屋で私が飲んだコーラ代など全部、有無を言わさず彼女が払ってくれた。必ずしも安い金額とはいえない。これが山のバウンのプライドなのだろうか。その日の晩は彼女の両親の経営するバッティに泊まった。レストランを閉じてテーブルの上に筵のベッドを作ってもらいそこで寝る。完全に閉鎖されているので夜はトイレには行けない(仮に行けたとしても真っ暗でどこが何かわからなかっただろう。懐中電灯の光など吸収されてしまう。光が当たっているところだけが見えるだけ)。バッティには宿代はなく食事代だけ払うシステム。食事は平地よりは高い。両親は感じの良い人だった。山のバッティにはボルところもある(バルパックのバッティは強欲婆だった)が、彼らはそんなことはしなかった。もちろん実家のほうには私のような不浄な者は入れない。

ネパールの山村のバウンの中には、本当にヨーロッパ人そっくりの人もいる。一瞬アルプスの少女かと思うような人に出会うと、ぎょっとしてしばし見つめてしまう。同時に、自分の中に植えつけられていた白人コンプレックスの根深さを自覚する。そういう容貌の人が山奥で実にネパール的な仕事をし会話をし生活をしていることに何か違和感を覚えてしまうからだ。

関係ないが、以前カトマンドゥで出会ったカシミール出身の青年は、マケドニアの末裔なのか、デッサン室の石膏像がそのまま生きているような顔の人だった。

バルパックはモンゴロイド系のガレー族の村。ガレーはグルン族の支族。とはいえインド人も住んでいるし、教師にはチェトリやバウンが多いようだった。インド人はこの村まではるばる行商に来る。茶漉しや日用品を村の道に並べて売っていた。山村のミルクティーは粉ミルクを使う。バルパックは石垣と石畳が美しい村だった。


バルパックについた日は強欲おばさんのバッティに泊まった。強欲といってもソルクーンブのシェルパやチベット人のような銭ゲバではない。ツーリストの来ない山村の水準から見てのこと。翌日アーリア系の教師が来てこちらの身元を聞いていった。教養はありそうだった。無駄なことは一切話さない。10日ほどの滞在中彼と何度も出会っているが、隙を見せない態度は一貫して変わらなかった。柔らかいが決して互いの距離を変えようとしない。特別な訓練を受けているかミッションを帯びている感じ。その目つきをなんと表現すればいいのか。公安警察の目?けして強くはないが隙がなく、たまにしか会わないのに常に観察されているような印象を与え、なんともいえない不快な後味を残す。おそらく彼もミリシアなのだろう。

しかし、その男がこの村の行政の中枢にいることは確かなようだったので、その男のところに出向いていって、しばらく滞在できるような空き家か部屋の紹介を頼む。彼は教師のかたわら、村の中心のバルパック銀座のようなところにブティックをもっていた(クルタ・スルワールか腰巻の生地くらいしか売っていない店に「洋服屋」という言葉は変なので)。彼はバウンのような顔立ちで色白、かなりハンサムな男でもあった。「仕立て屋カースト」というのは被差別カーストのはずだが、現実の仕立て屋とは関係ないのだろうか。

とにかくその男があるガレー族の教師を紹介してくれた。彼は独身で一人暮らしをしていた。私の望みは「炉のある家で火をたいてお茶くらい自分でいれたい」というものだったが、彼の家の二階には小さな炉もあり、そこに滞在することにした。食事は彼が作る「デロ」を食べた。「デロ」は雑穀(たぶん稗とか)を挽いた粉を湯で練っただけのもの。これが山の主食。色は茶色で、チベットの白いツァンパよりもっと粗末なもの。練ったデロのかたまりを手でつかみ、イラクサをすりつぶしてドロドロにしただけの「ソース」をつけて食べる。イラクサは山のどこにでも生えている。イラクサに触ってしまったときの痛さは耐え難い。

炉に火を入れるのは至難の技だった。いったん火がついてもほうっておくと消えてしまう。薪が湿っているわけではない。着火には柴も使う。彼も点火にはガソリンを使っていた。ガソリンを使っていったん火がついても、よほど上手に火吹きをしないと火をもたせることができない。標高が高くて空気が薄いのと気温が低いかららしい。最初は自炊も考えていたが、とてもそんなことができるレベルではなかった。たまにお茶をいれるのが関の山。

彼によれば私が炉を使えたのは大変ラッキーだったという。彼はしばらくすると結婚するが、そうなれば主婦以外のだれも炉に触れることはできなくなるから。

シャワーや身体を洗うお湯はない。公共の水場で身体を洗うだけ。当然全裸になることはできない。局部は男も女もトイレのときに水で洗うだけ。緯度は沖縄くらいだがヒマラヤに近い開けた山村なので、風が冷たく夜は冷え込む。寒い中で水で効率よく身体を洗うために、日本手ぬぐいを使う。強く絞って水をぬぐう。石鹸を使っても最小限の水ですばやく全身をきれいにすることができる。それでも公共の水場を使わせてもらえるということは、被差別民とは看做されていないということを意味すると思う。逆にカースト外の不浄な被差別民と看做されているにもかかわらず強引に水場に近づいたとすれば、ローカル文化を破壊したということになる。幸いこの村はネパール的には「ボテ」の村で私も「ボテ」なので、そういう問題は意識しなくてすんだ。(ボテとはもともとチベット人のことらしいが、モンゴロイド系を一般にボテと呼ぶ。)

電気はないので日が落ちるとあとは寝るしかない。日の出とともにおきて活動を始める。

そんな生活というか、それだけの生活だったが、結構充実していた。マナスルがすぐそこに手にとるように見える。ちょっと歩いたら行けてしまいそうな感じがする。

菩提樹の下の「チョータラ」ではいつも村人がたむろして議論している。ネパールでは議論と無駄口の区別はあまりない。形式はカトマンドゥのチェトラパティのアレと基本的に同じだが、普通にたむろでき、おしゃべりもでき、場合によっては瞑想もできるかもしれない。そんな菩提樹のチョータラが村々にある。


ある日いつもの御茶屋でミルクティーを飲んでいると戦闘服を着た男がひとりズカズカと入ってきていきなり尋問がはじまった。チェトリらしい雰囲気の男。腰には目立たないように包んだピストルをつけていた。ミリシアなどとはまったく雰囲気がちがう。身体全体から戦闘のオーラとでも言うべきものが発せられている。

相手は率直に「目的はなにか」と聞いてきた。「とくにない」「観光だ」と答えるしかない。「ビザを取るのにいくら払った」と聞くので30ドルくらいと答える。すると「お前は悪いやつだ」という。悪い政府にカネを払ったから悪いんだ、という論理のようである。「ビザを買わなければネパールに入国できないだろう」というと、近くで聞いていた聡明な感じのガレー族の兄ちゃんが、そうだそうだそれはしかたがないといって彼を説得してくれた。同時にその問いには、自分たちの領域に入るときにも同じくらいの通行料を払ってもいいだろう、という含意があるように感じたので、先手を打ってこちらから「カネがほしいのか」と切り出すと、彼はうろたえたように強く否定した。

あまり悪い人間ではないと感じたので、こちらも調子に乗って「カネがほしいのかそれとも命がほしいのか」などと大見得を切って挑発したりした。内戦状態とひとことに言ってもさまざまなレベルがあり、国柄や国民性の違いもある。調子に乗って大口をたたく外国人を面白がって歓迎してくれる国もあるが、これと同じことをイラクのような国でやってはいけないのである。

彼は尋問するだけでなく、自分たちの手の内に落ちた外国人に対して、自分たちの主義主張を伝え、自分たちの「生き様」を表現し、再確認したがっていたようで、政治的な話になっていった。

議論になったが、言いたいことはすべて言えた。「共産主義は大嫌い。お前はカンボジアで起きたことを知らないのか。あれも『マオイスト』のやったことだ。マオバディのリーダーだってバウンやチェトリばかりじゃないか。ジャナジャーティの村からカネを集めて自分たちはけっこう良い思いしてるんじゃないのか・・・・」などなど。粗野な男だったが怒り出すこともなく聞いていた。結局カネは一銭も取らなかった。

私との面会が済んで仕事が終わったあとも、その戦闘員は村にまだ名残惜しそうに、菩提樹の下のチョータラに腰を下ろして村人と議論を始めた。ほとんど彼一人でしゃべっていたので、議論というよりは演説だった。演説の中に「ヒロシマ」「ナガサキ」がやたら大きな声で出てきた。しばらくそんなふうに時間をつぶしてやがて「ジャングルに」帰っていった。

そのほかは特になんということもなく、村人と深く付き合うこともなく、ひとりで平穏に滞在していただけ。それでもとても楽しかった。けして貧しい村ではない。不ぞろいなように見えてよくそろった石垣と石畳で固められたこのバルパックの村は、豊かで特権的な城塞都市のようでもある。しかし、そこにいると人間の社会生活の本来の姿を見ているような気持ちになる。

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