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マラッカ航海日誌補遺

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ジャラン・シラン Jalan Silang KL マレーシア

某月某日。

New Straits Timesに載っていたJalan Silangというところを訪ねる。

その記事には、クアラルンプールのエスニックな町として、中華街、インド人街のほかに、「Sri HartamasのLittle Japan」と「Jalan SilangのLittle Nepal」とをあげていた。

Jalan Silangは地図にも載っていない小さな一角。中華街の北、マスジッド・ジャメより南にある。パサル・スニからなら、Jalan Tun HS Leeという通りを北に行き、バンコク銀行の前を右折し、MyDinの角を北に入ったところ。

「ネパール人街」というほどのところではない。デヴァナガリよりもむしろビルマ文字の看板のほうが目立つくらい。

通りに面した一階にあるレストランはみな、ただのインドレストランでネパール料理はおいていない。インド人店員にネパール料理はと聞くと、「ネパール料理もインド料理も同じだ。さあさあどうぞ」といういかにもインド人らしい反応が返ってくる。

ネパール料理店は雑貨屋の2階にあった。Himalayan Restoranというところ。入ってみる。中にいる客はネパール人のみ。話される言葉もネパール語のみ。

モモを注文する。とても美味しい。主人はバフでなく「ゴート」を使っているといっていが、ハラール肉のせいかヤギのケモノ臭さはない。ついてくるスープもうまい。5リンギ。

経営しているのはチベット人のおじさん。ネパールのチベット人だが、もう2年もネパールには帰っていないという。

この人がとても感じがよく、親切だった。メニューにないチベット茶を飲みたいと無理を言ったら聞いてくれて、懐かしいあの赤い魔法瓶に一本作ってくれて、しかもチベット茶の分はお金をとらなかった。

ひごろ宿の中国人主人の狂気じみた偏屈さに接しているので、このチベット人のおじさんのまともな感じがとてもうれしかった。(ネパールではチベット人ってのはカネに汚くて・・・というイメージがあったが。)

この店は、航空券も売る。クアラルンプールからカトマンドゥまで片道800リンギということ。スンガイワンプラザなどの代理店よりは安いのだろう。

ただし、この店はあくまでネパール人のための場所である。われわれがネパール観光をするような気持ちで気楽に入っていい場所ではないのかもしれない。ここに来ているネパール人青年たちは、タメルの茶屋などで話しかけてくるお気楽なあんちゃんたちとは違う。「外国人」が入ってきたからといって、喜んで英語で話しかけてくるような者はいない。そんなことをするメリットは何もないし、彼らは「外国」にもううんざりしてここに故国を求めてきているのである。

彼らはネパールで見るネパール人同様話し好きで、際限なくしゃべり続けるが、彼らの表情は明るくなかった。先進国マレーシアに出稼ぎに来て最底辺の労働者として生活し、精神的に参っているという顔つきだった。

ネパール人だけで集まりネパール語だけの空間に浸り、ネパールの音楽を聞きネパール料理を食べてどぶろくを飲み、ネパール式の飲みかたでポットの水を飲む。そうやって自分固有の文化を取り戻し、ホッとしたいのだろう。

私があの店にズカズカと入っていったことは、良いことではなかったのかも知れない。

また、私は、彼らのような意味での「故国」を持たないのかもしれないと思った。今回、日本を出て2ヶ月になるが、その間日本料理を食べたことは一度もないし、食べたいと思ったこともない。日本米を2、3年(あるいは永久に)食べなくても平気である。

しかし、毛唐でさえ彼らの自国の料理やそれに近いものを外国でも食べたがるものである。

私が日本料理を食べたいと思わないのは、日本の食文化が破壊されてしまっているせいだろうか。それともたんに私の食文化が個人的に破綻しているだけだろうか。

一方、New Straits TimesにLittle Japanとして紹介されてあったSri Hartamasは広い一帯で、そのどこがLittle Japanなのかわからない。

宿の偏屈な中国人オヤジによるとHartamasは金持ちの住むところらしい。そして、Mont Kiaraに日本人が集まって住んでいるコンドミニアムがあるのだとか。 おそらく、駐在員の家族とかが住んでいるのだろうか。

「日本人は同じところに集まって住みたがる。ばらばらには住みたがらない」なんて、中華街の中国人オヤジに言われてしまった。

その「リトルジャパン」がどんなところかわからないが、高級住宅地ということで、私のようなツーリストの近寄れる場所ではなさそうだし、市内からかなり遠いところにあるので見に行くのはやめた。

しかし、日本人が集まって、仲良く楽しく住んでいるとしたら何の問題もない。

インターネット屋に来る毛唐などは、他人の迷惑というものを生まれてこの方一度も考えたことのないような連中が多い。アジアではどんな無作法も許されると思い込んでいる白人ばかり。

こういう人間たちとは決して同じ場所に長くはいられないと痛感する。日本人(アジア人)と白人とが対等に共存することは、不可能なことだと思う。

日本人がそこにいる以上、日本人の最低のマナーが通用する空間は是非必要である。大企業で働く日本人駐在員や日本人在住者のための場所はあるようだが、ツーリストや個人の長期滞在日本人のための場所は、どの国にも少なく、(規模も小さいために陰湿な場所になる)ように見える。

カネに余裕があり愛国心がある人が、せめて日本人専用インターネットカフェだけでも各都市に用意してくれたらありがたいと思う。

毛唐は、アジア人など「物」としか思っていない。ネット屋(日本と違って衝立などない)でパソコンに向かいながら、私を挟んで、「頭越し」ならまだしも、私の鼻先すれすれうなじすれすれをかすめるように左右から大声でしゃべりあう。その声は100メートル先でも聞こえるような大声。([毛唐]→[透明な私]←[毛唐] という位置関係)。毛唐の汚い息が顔や首にかかるようである。彼らにとっては私は人間としては存在していないのである。

それでもマレーシアは東南アジアではまだましなほうなのである。

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バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

バンダ・アチェはコーヒーがうまかった。いつかまたバンダ・アチェを訪れてあのコーヒーを飲みたいと思う。

06年3月。バンダ・アチェは平穏、治安もよく、町は清潔だった。今度のスマトラ旅行でドゥマイ、プカンバル、バンダ・アチェ、メダンを訪れたが、その中ではバンダ・アチェが一番治安が良かったのではないかと思う。バンダアチェの市内に関する限り、私は深夜に通りを歩いても危険を感じない。ホームレスや歩道で寝ている人をまったくみなかった。プカンバルでは深夜に大通りを歩くと危険を感じることがあった。

バンダ・アチェの空港に降り立つと、周囲に広がる風景の美しさに圧倒される。私は東南アジアでこんなに美しい風景を見たのははじめてである。ほとんど何もない平野がどこまでも続いていて、平野が尽きたところに低山が見える。平野と低山の境は里山があるのかもしれない。日本の沖積平野の風景を思い出す。この広々とした美しさをどれだけ津波に負うているのかは、津波以前に訪れたことがないのでわからない。

空港から市内へはかなりの距離がある。その間もずっと、美しい風景が続く。もちろん、津波被災者のテント村やバラックもある。

東南アジアに最初に来た頃は、「南国だから自然もきれいなのではないか」という期待を裏切られて幻滅したものである。「日本の方が自然はずっときれいじゃないか。海も汚いし」というのが率直な感想だった。しかしアチェには東南アジアでこれまで見たことのない美しさがあった。

バンダ・アチェの空港から市内までのタクシー料金は決まっていて、7万ルピア(1万くらいは負けさせられるかもしれない)。私は、津波の被害が一番ひどかったと聞いたビーチであるタマン・トゥピ・ラオ(Taman Tepi Laut)のリゾートホテル「ホテル・タマン・トゥピ・ラオ」に泊まってみようと思い、10万リンギでタマン・トゥピ・ラオに向かった。しかし、行ってみると「ホテル・タマン・トゥピ・ラオ」は跡形もなかった。津波で流されたらしい。のんびりとした小さなビーチで、地元の人たちが行楽している。飛行機の中であったアチェ男が、「ホテル・タマン・トゥピ・ラオ」は被害が一番ひどかったところなのでやめといたほうがいいと言っていたのはこういう意味だった。当然ながら海はごく普通に穏やか。

ちょっと降りてぶらぶらしてみた。人は多いがレストランも何もない。ちょっとした茶店や売店があるくらい。立派なセメント工場がある。それが妙に美しく見えた。市内に戻るのにまた7万リンギ要求される。

津波の後に残った中で一番良いと聞いた「スルタン・インターナショナル・ホテル」の前でタクシーを降りる。スルタンホテルは馬鹿高い。比較的安い部屋は、ベニヤ板張りの窓無しの狭い部屋でホテルとはいえないようなところ。まるでカオサンの安ゲストハウスのよう。他の部屋も値段の割りに設備は良いとは言えず、ホットシャワーは「今日は」壊れていると言っていた。

タイ北部にいるような壊れきった感じの毛唐オヤジもロビーに居座っている。こいつは災害の悲惨に惹かれてきたのだろうか。それとも、ベトナム難民のときを思い出して、人身売買や児童買春のチャンスを探してきたのだろうか。

しかし、スルタンホテルのフロントクラークは親切だった。客でもない私に他のホテルを教えてくれて、地図まで書いてくれた。

その時、私の後ろに宿泊客らしい白人男が待っていたが、その男のことはまったく意に介さないで私の問題に集中してくれている。ちょっとしたことだが、私は新鮮な感動を覚えた。タイではありえないことである。

タイには行かないほうがいいとつくづく思う。タイに先に行ってしまうと、東南アジアの連中はみな白人に媚びることしか能のない下司どもだろうという先入観を持ってしまいがちである。

スルタンホテルで教えてもらった「メダン・ホテル」に行ってみるが、「予約以外は満室」だと言われる。本当か?と念を押してみたが、本当らしい。Prapatホテルも満室。どうしたものかと途方にくれながらホテルを探し歩く。

いまバンダ・アチェに行くなら一日目のホテルは予約しておいたほうがいいかもしれない。津波でホテルが何件か潰れた上に、援助関係者やそのカネの周りに集まる業者などがたくさん来ていて、常に部屋不足になっているようである。

メダンホテルの隣のWisataホテルにようやく部屋を見つけてチェックイン。しかし、ここも明日は予約があるから一晩だけ、と言われる。小便臭い感じの部屋で、ホットシャワーはもちろんシャワーもない。流水はあるが、水槽に溜めた水で身体を流すローカルな方式。それで一泊18万ルピアもする。

Medan,Wisata,Prapatなどのホテルの目の前にある大きなマーケットで夕食。コーヒーがおいしいので屋台をはしごして飲み歩く。コピ・パナス1500~2000ルピア、コピ・スースー3000ルピアくらい。

バンダ・アチェのコーヒーは、メダン、ドゥマイ、プカンバル、あるいはバリ、ラオス・・・などのコーヒーとはまったく違うものである。淹れ方も違うし、豆も違うかもしれない。粉っぽさがなく、透明感があり、コクがある。これまで東南アジアで飲んだコーヒーでは一番おいしかった。カンボジアで飲んだコーヒーに幾分似たところがあると思った。カンボジアのコーヒーも透明感があり、舌にピリッとする刺激がある。コーヒーのグラスカンボジアのを少し大きくしたような形で、朝顔形のグラスいっぱいに注がれて出てくる。(コーヒーの有名なベトナムにはまだ行ったことがないので、あまり行きたいと思う国ではないが、いつかコーヒーを飲みに行きたいと思う。)

マーケットのコーヒーショップは深夜まで開いていて、地元の人々が集まり、夜もコーヒーを飲んでいる。酒を飲んでいる人はいない。この光景はミャンマーのティーショップに少し似ていると思った。ミャンマーでも、ティーショップに夜遅くまで人々が集まり、ラペイエ(ミルクティー)などを飲んで過ごしていた。

夜のマーケットをうろつく毛唐も少なくない。地元の人が多いのでまだ毛唐に占領されたような場所はないが、(今の)バンダ・アチェは、スマトラにしては毛唐が多いところ。肩で風を切って歩くバックパッカー風の半ズボン白人もいる。が、特徴的なのは、スラックスをはいた中年白人が多いこと。東南アジアの貧しい地域でスラックスをはいた白人男といえば、まず頭に浮かぶのはミッショナリー。国連関係者やNPO関係者かもしれない。

カンボジアに国連とNPOが来て、白人男の欲望を満たすために「スワイパー村」ができた。UNとでかく書かれた車両が戦車のように進軍していく。援助の口実の下、アチェが白人によって確実に汚染されつつあることは確かだろう。プカンバルに3泊した間、白人は一人も見なかったのである。アチェには難民がいる。郊外には汚いテント村が残っているし、バラックも多い。いったん倫理を捨てたら際限がなく、どこへでも行き何でもやる白人男たちにとっては、かっこうの児童買春・処女狩り・女奴隷狩りのターゲットと映るだろう。それが思ったほどうまくいかないとしたらイスラム教のおかげである。

アチェにイスラム教のタガがなかったら、津波被害を受けたこの土地はどんなにおぞましい臭気を放つ場所になっていたかわからない。

米国旗を掲げて米国の援助を宣伝する看板は目立っていた。日の丸つきの看板はほんの小さなのを見ただけである。どうしてもっと大きなのを堂々と立てないのだろう。「ジャイカ」の名前は売れているが、日本人の存在感が大きいとはいえない。

後にメダンで会ったアチェ出身のおばさんは、津波の後、シンガポールの人がたくさん来てシンガポール人の友達がたくさんできたと言っていた。日本から来た人もいたが、友達はできなかったとのこと。そのおばさんはたどたどしい英語を一生懸命話していて、英語学習中という感じだった。

ホテルWisataは中国人のやっている宿だったが、感じのいいおばさんだった。ハッカと言っていたから客家なのだろう。漢字はもう自分の名前がなんとか書けるくらいで(見せてもらったがかなりあやしい)、小さな娘にはインドネシア名をつけている。11歳の可愛い子だった。

二日目。

ホテルWisataをチェックアウト。後払いで17万5000ルピア。一階の部屋で、向かいの部屋が地元のNPOかなにかの事務所になっていた。どこでもそうだと思うがローカルの援助関係の人間なんてただ傲慢なだけ。NPOなどが傲慢なのはローカルに限らないが、ローカルだとさらに直接的になるのだろう。エアコンはあるのに扉は開けたままだし、夜の出入りが激しくなかなかうるさかった。夜その部屋のボスらしいインドネシア人に、「扉を閉めてくれませんか」といったら、すごい声で「ホワーイ」と開き直ってきたので、叱り付けてやらざるを得なかった。何とか夜を過ごすだけの部屋。

隣のホテルPrapatに部屋を見つける。一泊20万ルピアでここは先払い。どうしてWisataの人は一泊だけなのに後払いで良いといったのかよくわからない。Prapatは清潔で、Wisataよりは良いが温水はない。裸で歩き回る毛唐がいる。

ここのフロントの太ったお姉ちゃんも客家だと言っていたが愛想は良い。宿代のレシートに漢字で署名したら「中国語が書けるのか」と聞かれたので、これは日本語だと答えておいた。

津波の水はメダンホテル、Prapatのあたりで4メートルくらいまで来たらしい。マーケットのあたりで2メートルと言っていたが、マーケットとメダンホテルに標高の差があるとは見えないので、どうしてそういう差が出たのかは解らない。マーケット付近でも100人ほどの人が亡くなったという。

リクシャで大マスジッドを見に行く。たいへん立派なモスクですばらしい。マスジッドの門には、Perhatian Puda Memasuki Kawasan wajib Berbusana Muslim/Muslimahとか書いてある(走り書きなので記録違いの可能性大)。Attention you are coming into Muslim/Muslimah dress areaとも。

思うに、このPerhatianというのは、インドネシアの空港の館内放送で女の人が「プラハティア、プラハティア」と呼びかけているあれと同じ言葉なのだろうか。私はあれが大好きである。何度でも聴きたくなる言葉である。

マスジッドの敷地内に入って良いかどうか、その辺にいる人に聞くと良いといわれた。しかし、もちろん会堂に入ることはできない。そこは礼拝の場所である。

広くて清潔で荘厳で豪華なこの会堂を覗いていると、ひんやりした空気が流れ出してくるようで、自分もそこに入りたいという強い衝動に駆られる。どこのモスクでもそうだが、ここでも人々は暑気を避けて会堂内で休んでいるが、そのことによってこのマスジッドの荘厳さはいささかも失われない。

バンダ・アチェのマスジッドはさすがにすばらしい。これを見て、アチェに来てよかったと思った。

マスジッドへはメダンホテルやスルタンホテルから歩いてもいけるが、リクシャで5000ルピアで喜んで行ってくれる。マスジッドの塔(この塔をミナレットというのかどうかは私にはわからない)はホテルの前のマーケットからも見えている。塔の下のほうは修理中だった。これは津波で壊れたもの。

メダンホテルの近辺には白人がうろうろしているが、この立派なマスジッドを見に来る者はいないようだ。

マスジッドの前で「パン」を売っていた。スマトラに来て初めて「パン」スタンドを見た。久しぶりに「パン」を見た。早速買う。4個で1000ルピア。タバコは入っていなかったが、久しぶりだったせいか、かなり強く苦かった。

「パン」は売っていても、路上に「パン」を吐いた赤い痕跡は見当たらない。ここの人は行儀が良いのだろう。

スマトラに来てからインド人は見ない。インド系はいるのだろうが、マレーシアで見るような明々白々なインド人は見ない。しかしアチェでは「パン」を売っている。「パン」はインドの文化だと思ったが。

バンダ・アチェはどこも良心会計だった。食事はライスとチキンと野菜とコピ・パナス付で10000ルピアくらい。コピ・パナスは同じマーケット内でも店によって1500ルピアだったり2000ルピアだったりする。

ローカルレストランには、ネパール人のように同じテーブルに居座ってさかんに英語で話しかけてくるウェーターもいる。

プカンバルは、シンガポールより緯度は赤道に近く、ほとんど赤道直下だと思う。しかし、北端のバンダ・アチェのほうが昼間は暑い感じがする。

午後4時ごろ、塔のほうに向かう大通りの右手にあるガルーダの代理店で、パレンバンへ行く飛行機のチケットを予約。大変愛想がよい。ただ、これは後にジャカルタでトランジットであることがわかり取り消す。パレンバンへの直行便は無い。

夕方リクシャーで海岸などを回る。英語はまったく通じなかったが、「ツナミ」と言ったら「ツナミ名所」をいろいろ回ってくれた。

船が陸に打ち上げている光景はここではまったく珍しくない。錆びているのも多いが、美しい船もある。

巨大な船がかなり奥のほうまで上げられてそのままになっている。最初そこに近づいたときは工場でもあるのかと思った。すぐ近くまで来てようやく舟だと気づいた。感動することの少ない私も、それが船だと気づいたときには、おもわず「オー!」と声を上げてしまった。

箱型の大きな船だった。船のあるところにはもとは家があったという。家は押し潰されて今も船の下敷きになっている。しかしほとんど完全にぺしゃんこになったようで、その残骸も外からは見えない。

この巨大な船は地元の観光名所になっているらしく、スカーフをした地元の女の子たちが船を背景に家族で記念写真を撮っていた。募金箱も並んでいる。

そのほか、建物の2階に上がったままになっているわりと大きな船も見た。建物の2階を押し潰して2階の位置に上がったままになっている。

   
バンダ・アチェは活気があり、援助景気なのか内国の訪問者も多いようだ。リクシャで通りを走っていてもUNの車をよく見るし、援助関係らしい(ツーリストには見えない)白人もよく見かける。

昼間リクシャで大通りを走っているときに見かけた、別のリクシャに乗った若い白人女は非常に居丈高だった。

気取ったそぶりで、手をさし伸ばしてまわりの車に合図を出ながら、まるで自分でリクシャを運転しているようだった。リクシャと運ちゃんは「馬」で、彼女は「乗馬」をしていたのかもしれない。

私のリクシャの運転手に直接、「待て」と言う合図を出して道を譲らせ、私の前に割り込んだ。一見してツーリストでないことがわかる。国連関係かNPO関係者だろう。

あのそぶりをなんと表現したら良いのか。

「私が教えてあげているのです」「私から学びなさい」「私は正しい」という気を強烈に発していた。

私は彼女を一目見てこの人間のすべてがわかってしまうような気がした。

「私は正しい」「私の思想は正しい」「私の掲げる理念は正しい」「私の受けてきた教育は正しい」「正しい私にはミッションがある」「私のミッションは正しい」・・・・「正しさ」の権化のような女だった。

NPO関係者・援助関係者だからきっと「良い人」だろう、とか、まだまだ日本人は思い込みがちではないだろうか。

たいへんな見当違いだと思う。援助関係の白人など、どこでも非常に独善的で居丈高で、かつ人種主義的なものである。自分の行為の「正しさ」を生涯一度も疑ったことが無く、おそらく死ぬまで一度も疑わない。彼らは死ぬまで「『文明』の使徒」なのだ。

そういう白人の周りに集まるアジア人活動家たちもまた、「正しい」白人に媚び、白人の仲間になって、他の同国人やアジア人を見下すことがそこに来た動機であるような連中がほとんどである(もちろんカネも)。

白人ツーリズムはもとより、白人人道援助もまた、現代の植民地主義にほかならない。

(後に見た「ジャカルタポスト」には、「アチェへのジェラシーを防ぐために、アチェの特権の一部を他の地域にも与えよ」などという識者の意見が載っていた。メダンなどで、「アチェ出身者」という人が妙に明るい表情で自己紹介し、英語で外国人に話しかけ、外国人の友人がいることを自慢していたりするのを見ると、「アチェの特権」というのもありそうなことに思える。また、同じく「ジャカルタポスト」の他の記事では、津波の3ヵ月後におきたニアス島の地震の被災が先に起きた津波の陰に隠れてしまって見えにくくなっている、というような指摘もあった。アチェは国際的なブランドになり、「物語」になってしまったのだろう。)

今のバンダ・アチェの活気は、かつてのポイペトの活気に似ているのかもしれない。もちろんこちらのほうが先進国だし、インフラも比較にならない。ポイペトのような不健全さや危険さはバンダ・アチェには感じない。

ホテルの前のマーケットでは深夜12時過ぎまでコーヒーをやっている。深夜になると少しは肌寒くなるので、外で飲む強いホットコーヒーはちょうど良い。酒はもちろんテーを飲んでいる人はあまり見かけない。テーとかテースースーといってもあまり通じない。さすがにアラブの文化を直接に受けた土地柄だと感じさせられる。今日一日でコピ・パナスを何倍飲んだだろうか。多分10杯ぐらい。

夜のマーケットには乞食も回ってくる。そんなに多くはいない。子どももいるが、概してこざっぱりした服を着ている。十分働けそうな若い男も毎晩物乞いに来ていた。

三日目。ホテルPrapatに連泊。

バンダ・アチェに最初にはいったとき、ネパールのような臭いがすると思った。海と山で地理的には正反対なのだが。

バンダ・アチェの人間も少しネパール人に近いような感じがする。西のほうの影響を受けているということだろうか。それとも、援助経済でそういう性格が形成されるのだろうか。(ただし、バンダ・アチェはネパールと違いアーリア系は見ない。)

マーケットのレストランで働いている男がネパール人のように付きまとってくる。英語でさかんに話しかけてくるが、何を言っているのかわからないことが多い。

バンダ・アチェにもインド系がいないわけではなく、よく見るとそれらしい人はいるが、マレーシアのインド系のように見るからにインドという感じではない。

アチェ人は強いアチェ意識を持っている。英語を話せる人は少ないが、たまに会うとアチェアチェを連発し、インドネシアとは違うようなことを言っていた。

バンダ・アチェではあちこちでイスカンダル(Iskandar)という文字を見た。イスカンダルとはなんぞやと少し英語を話す茶屋の少年などにしつこく聞くと、どうやらアチェ人の名前らしい。インドネシア人にはない名前だと言っていた。

ホテルのあるところから海岸はそれほど遠くない。リクシャで1万ルピアくらい。

ホテルにいても風向きによって海の生ぐさい臭いがしてくる。これはあまり好きではない。

ガルーダ以外の航空会社代理店では英語はほとんど通じない。

明日の航空券を予約しようと思ったが、どの代理店で聞いても「ライオン」と「アダム」はシステム障害とかで電話さえつながらず。ガルーダはメダンまで40万ルピアほどする。他の航空会社は時間に難がある(朝早すぎる)。

プカンバルのフラヤホテルの代理店では、メダン→バンダアチェのフライトが予約できたのだが、バンダ・アチェの代理店ではメダン以降のフライトは予約できない。メダンは毛唐が多そうで行きたくないのだが(実際に行ったらそれほどでもなかった)。パダンやパレンバンに行こうとするとジャカルタでトランジットにしないと予約を入れられない。

いずれにせよ、まずメダンまで行って、メダンで次のチケットを手配しなければならない。

ガルーダの代理店の女の子はチェックと言う英語をcekと綴っていた。インドネシアではアルファベットはオランダ語読みらしく、cはチェー(ツェーではない)らしい。JYVなど以外はドイツ語などとほぼ同じ。アー・べー・チェー・デー・・・

バンダ・アチェは、東南アジアにイスラム教が最初に到達した土地ということで、東南アジアのムスリムにとっては特別な土地だということだが。黒いスカーフをしている人はほとんど見ない(ムスリム女性のスカーフはインドネシアではジルバップとかいうらしい。マレーシアではトゥドゥン)。色物のスカーフが多い。普通のスカーフを巻いて髪と耳と首を隠しているだけの人も少なくない。顔を隠している人や、マレーシアで見かけるような黒ずくめの人はまったく見なかった。

人間の美意識は可塑的なものだと思う。ミャンマーで顔にタナカを塗った女の人ばかり見ていたら、女性はタナカをしていなければ美しくないように感じるようになったし、マレーシアでトゥドゥンをした女性を見慣れると、髪を見せたり首をさらしたりしている女は下品に見えてくる。(ただし、タイ女のしかめっ面とか白粉とかはいくら見ても良いと思うようにはならないので限界はあるのだろう)。

今夜夕立があった。

四日目。

朝9時にガルーダの代理店に行き、いつもの親切な姉ちゃん(ぶすいけど)に、もういちど各社の料金を電話で聞いてもらう。「ライオン」は明日ので41万ルピアぐらい。「アダム」はプロモーションで23万ルピアぐらい。これは安い。明朝11:30のアダムのメダン行きチケットを買う。

今日は風邪気味で身体の節々が痛む。昨日蚊にさされた後、夜中に急に寒気がしたのでマラリアかと思ったが、高熱は出なかった。

  
マーケットのカフェで日本語を話す男と出会う。

95年から5年間も日本に不法滞在して「土方」をやっていたという。自分で「ドカタ」と言っていた。日本語の会話はできるが、読み書きはできない。

明日アチェをたつといったら、もう少しいるのならジャイカに話してくれて俺のことを推薦してもらえたのに・・・・とかわけのわからないことを言う。本気でそう思っているようだったが、読み書きができないなら日本語ができるとはいいがたいし(ワープロも打てないことになる)、第一、「不法就労で日本語を覚えたから日本語は確かです」なんて話が、まともな世界に通じるわけがないと思うのだが。

インドネシア人の友達に連れられて遊んだ西川口の風俗の話などには熱がこもっていた。→詳細はこちらhttp://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/09/discriminationb_bbd7.html

アチェは厳しいから25歳でも処女がごろごろいるとか言っていた。無職でごろごろしているのに、嫁さんも子どももいる。

この男もインドネシアが大嫌いだそうで、強烈なアチェ意識を持っているようだった。

彼から「女子割礼」の話を聞いた。「女子割礼」と言えば欧米および日本の進歩主義者やフェミニストたちによって、現代に残る野蛮の象徴のように言われ、フェミニストたちからは女性差別の行き着くところのように言われているものである。

彼は15歳くらいで割礼を受けたが(遅いほうだという)、アチェの女子は一歳位でみな割礼を受けるのだと言う。女子の割礼は、包皮を取るのではなく、クリトリス(陰核)を完全に切除する。

その辺にいるしとやかできれいなアチェ女性もムスリムなら皆割礼を受けている。それでなにか不自由したり、変になったりするわけではない、ということだろう。それによって不感症になったりしないことは、彼の嫁さんが証明していると言うことである。

こいつは西川口でしっかり見てきたはずだが、私の顔をしげしげと見て、「日本の女はアソコから何か突き出してるのか?気持ち悪いなあ」なんてことを言っていた。

彼らの「女子割礼」の習慣を異文化の人間が「人権問題」として騒ぎ立てることは、少なくともアチェ人の心情を害するだろう。直接イスラム教徒から女子割礼について話を聞いたのはこれが初めてなので、他のムスリムがどう考えているかはわからない。しかし、男子の割礼については他の地域でもムスリムなら当然のことという答えが返ってきた。
   

その男と話しているときに、日本人の若い女が二人通りがかったので話しかけてみた。某国立外語大インドネシア語科の学部生だそうで、先生と一緒に来たらしい。

研究なのかボランティアなのか物見遊山なのかはっきりしなかったが、「アチェの現状を日本に伝えるため」とか(ちょっと間抜けなことを)言っていた。アチェは飛行機が飛んでいてマスコミがいくらでも入れるところなのだが、インドネシア語ができるとはいえ・・・・まあいいか。アチェに来て3日目だという。

私が、アチェのマスジッドはすばらしいよね、と言ってもほとんど反応してくれなかった。モスクなどには興味が無いようだった。ムスリムのスカーフについては、あんな暑いものはたまらないとか、全体としてイスラム教やイスラム文化にはあまり良い感情を持っていないようだった。

きれいなバラック建ってたっているようにみえるが避難民の需要は十分に満たせていない(これは避難民のいるところならどこでも常に当てはまる真理である)、アチェには民族紛争があったが津波で下火になったとか、トゥドゥンはマレーシア語でインドネシア語ではジルバップというのだとか、一から講釈してくれた。

  
日本に不法滞在し不法就労したことのあるという男には、ネパール(ゴルカ)でもミャンマー(タチレク)でも会ったことがあるが、皆同じような品の悪さが付きまとう。ただ、タチレクで会った人は、幾分ましだった。日本人は同じだと思っていて、自分では日本人のことがわかっているつもりになっている。自分では日本人の足元を見ているつもりのようだが、ただただおのれの賤しさがにじみ出るばかり。日本で覚えてきた日本語も不法就労の現場で覚えたものだから同じように下品になる。(タチレクで会った人は、同じように土方をやっていたにもかかわらず、実家がしっかりしていたせいか全体にそれほど下品な感じは受けなかった。)

 
バンダ・アチェのネパールのような匂いは安物のガソリンを焚いた匂いだろうか。しかし、「ポイペト、ドゥマイ」グループとはまた違う。いつか中東の産油国に行っていろいろな油の匂いを調べてみたいと思う。

露天のガソリン屋はバケツから手桶でガソリンをすくって濾斗でバイクに注ぎ込んでいた。バケツはふたをしてあるが、ガソリンが気化して立っていくのが蜃気楼のように見えている。

これはあまり良いやり方ではない。露天でガソリンを売るときはペットボトルに詰めて一本いくらで売ったほうが安全だと思う。とくにコカコーラなど炭酸飲料のペットボトルは密閉性が高いので揮発油を売るのに適している。

Pante Pirak(スーパー)に行ったときに、近くのモダンなカフェでエスプレッソを飲んだ。客はいなかったがエスプレッソはおいしかった。8000か9000ルピアだったと思う。 

夜のマーケットで中国人のような女(日本人かもしれない)を連れた半ズボン白人を見た。

五日目。バンダ・アチェからメダンへ。

ホテルPrapatをチェックアウト。ホテルの前に待っているタクシーを拾い、空港へ。規定料金は7万ルピア。6万に負けてくれた。

朝8時半ごろ空港に着く。渋滞があるかと思って早めに出たが、まるでなく、早くつきすぎた。

空港のチェックインカウンターではガルーダに乗る毛唐のグループが偉そうに振舞っている。狭い検札の入り口に大きな身体の毛唐が平然と広がって突っ込んでいくので、チェックの係官が突き飛ばされそうになるが、毛唐はまったく意に介さない。

空港は市内以上に毛唐が目立つ。毛唐たちは皆ジャカルタに向かう。バックパッカーのようなのはおらず、一応仕事のようだ。アダムエアのチェックインは9時30分から。

 
待合室で英語を話すアチェ人のおばさんと話していた。子どもが4人もいると言うが若く見える。あちこちに知り合いがいるようで、しょっちゅう通りがかる人と挨拶している。

その友達の中国系の30歳くらいの女が来る。第一印象は非常に無作法で荒っぽいと言う感じ。この人はおじいさんが中国人というだけの人だそうだが、立ち居振る舞いがはっきりと中国人丸出し。色白で目は茶色でアラブ系も混じっているように見えるが、動きや雰囲気は完全にマンダリンと言う感じ。遺伝なのかそういうコミュニティにいるからか、それはわからない。しかし彼女もムスリムで、男子割礼について聞くと、当然だ、それでたくましくなるんじゃないの、みたいな答えだった。さすがに女子割礼については聞けなかった。麻酔をかけてレーザーで切るから平気なのだとか。

スマトラで(男子)割礼について何度か女性にも聞いたが、みなごく普通の話として冷静に答えてくれる。つまり、女性もたいてい幼いころに兄弟などの割礼を見聞きしており、割礼は子どもがやること、子どもの問題であって、成年男子の性の問題ではないと言うことなのだろう。

アチェ人の女のほうは、おとなしくちょっと洗練された知的な雰囲気があった。建築のデザイナーだといっていた。色黒で、ピラミッドの中の壁画に書かれている人のようなエキゾチックな顔立ちだった。

彼女は、自分の顔は「典型的なアチェ人」(ティピカルアチェ)の顔だと言っていた。中国人(中国系アチェ人)の女のほうもそういう。私は思わず、エジプト人みたいな顔立ちですね、と言ってしまったが、彼女にはピンとこなかったようだった。

彼女らによれば、アチェ人は「アラブ人とインド人と中国人」の混血で成っているのだそうである。「インドネシア人」が出てこないところが味噌というべきか。

そのエジプト人風(私が勝手にそう思っただけだが)アチェ人の女性とは、たまたま飛行機でも隣の席だった。これはまったくの偶然だった。

彼女は津波の前はバンダ・アチェに住んでいたが、今はメダンに住んでいる。津波ではオフィスをやられたが、家はやられなかった。しかし、津波の後、ジャイカに家を賃貸して、今はトルコ(政府?)からメダンに家を借りて住んでいる、ということだった。

「ジャイカの日本人は一日中コーヒーばかり飲んでいる。私は2杯も飲めば眠れなくなるのに・・・」なんて言っていた。たしかに、アチェのコーヒーはうまいと思う。

アダムエアは1時間遅れて、12時15分ごろ出発。スッチー(女性客室乗務員のこと)は日本人好みの美人ぞろいで、救命胴衣の指導もちゃんとやる。

バンダ・アチェに向かう(スマトラ島) インドネシア

朝、ホテル付属の代理店でシュリーヴィジャヤ航空のメダンまでのチケットを受け取る。結局27万ルピアぐらいまで安くしてくれた。近所の代理店でも40万ルピア以上といっていた。たいへん良心的。

午前11時、フラヤホテルをチェックアウト。ホテルの無料のシャトルバス(ミニバス、乗客は私一人)でプカンバルの空港まで送ってもらう。

プカンバル空港のチェックインカウンターは英語がまったく通じない。居合わせた地元の乗客が通訳してくれた。毛唐はまったく見かけない。

空港に入るときとチェックインのときと2回荷物チェックがある。こんなローカルな空港のわりには厳しく、チェックインの時には荷物をあけさせられた。いきなり手を突っ込んでくる。

シュリーヴィジャヤ機は一応ジェット機。12時15分発の予定で、15分ほど遅れる。このときのシュリーヴィジャヤ機では、クルーによる酸素マスクなどの指導がなかった。酸素マスクや救命胴衣の指導は、私の愛するミャンマーエアウェイズ(MA)の国内線でもあったのに・・・・。機内は長距離バスという感じで、かなりボロいが、ミャンマーエアウェイズほどすばらしくはない。

スッチー(女性客室乗務員のことである)の制服は上出来で、愛想もよく、美人ぞろい。ピリピリしたようなところがない。ミャンマーエアウェイズもエアインディアもロイヤルネパールもとくにピリピリはしていなかったが、愛想よく美人ぞろいというわけにはいかなかった。

メダンの空港では、国内線の出口と入口とがずいぶん離れたところにあって迷った。国内線の出口は国際線の入口の近くにある。

最初まちがえて国際線の方に行ってしまった。そこにレストランがあり、案の定というべきか、ペナン経由で持ち込んだらしいアジア女を連れた白人が二人。

そのうちひとりは一見して20歳前後のタイ売春婦。男のほうは60歳位と見えるジジイ。女は飯の食い方ではっきりタイ女とわかる。

もう一組のほうは若い男で、女のほうにもバックパッカーのような格好をさせている。若い白人ツーリストは、タイあたりで拾った女にこういうナリをさせて、「本物のガールフレンド」のように見せて連れ歩くことも多いが実質は買春。両方とも写真を撮っておいた。

なんとか国内線入口を探し出し、チェックイン。メダンでのチェックインはスムース。荷物を開けさせられることもなかった。空港待合室には白人は数人、中年以上のオヤジが多く、固まっている。

バンダ・アチェへのチケットは53万ルピアくらい。ライオン航空。昨日ホテルで聞いた値段よりは少し安くなっている。

バンダ・アチェへのフライトには、毛唐が多い。若い白人女も2,3人いる。ローカルも英語を話す連中が多いようだ。ジャーナリスト風に、偉そうに振舞っている毛唐もいる。バンダ・アチェはいろいろあって国際的に名前が売れているせいか、毛唐ズレしているのかもしれない。東南アジアのイスラムの発祥の地で東南アジアムスリムにとっては特別な土地のはずだが。

チケットを買うとき、係が4時発といったのはデタラメで、14時45分発だった(14時15分発のが遅延)。

ライオンエアは国内線でもちょっと国際線風で、スッチーはツンとして救命胴衣などを実演している。

 
ライオン機に搭乗するとき、またまたきわめて不快な毛唐と遭遇した。(毛唐は常に不快なので、さらに何か不快な条件が加わる場合には「きわめて不快」となる)

その中年のジャーナリスト風の白人の席は私の席とと同じ列の窓側で、私は通路側になっていた。真ん中の席はアチェ人の中年男。

その毛唐は客室にいくつも大きな荷物を持ち込んだうえ、それを私の座るべき座席の上にどっかり載せている。

「ここは俺の席だ」というと、平然とI knowという。

上の荷物棚はもう他の荷物でいっぱいになって入れるところがないので、自分の持ち込んだ多すぎる荷物を他人の座席の上に置き、開き直って通路に立ったまま「困ったなあ」「どうしたものか」と考えているのである。

私も座れないし、その男が入り口に近いところの通路をふさいで棒立ちになったままなので、後から入ってくる人たちもそこで中に入れず待っている。ほとんどの客が有色人種である。

この男は自分で考えて問題を解決しようともせず、「みんなの邪魔をして突っ立っていれば誰かが何とかしてくれるだろう」という姿勢で「困っている」のだ。

この種の開き直りは白人特有のものである。中国人やインド人の横着(おうちゃく)は、自分が横着をしているということを知らないのである。つまり、互いに相手の立場に立って自分の嫌なことは他人も嫌だろうからしないようにし、自分がしてほしいことは他人もしてほしいのだからするようにしていれば、結果としてお互いの利益になるだろう・・・・という「市民社会のルール」をまだ知らず、共有していないだけである。他人の立場に立つ、とか他者に共感するという(アダムスミス的な)習慣がないだけである。

しかし、この白人は、「市民社会のルール」を熟知したうえで、それを公然と破り捨てているのであり、さらにタチが悪い。他人の立場を熟知しながらも、「自分は(アジアでは)その規範を公然と破って(有色人種に)迷惑をかける権利がある」と思っているのだ。

「どうしてくれるんだ」みたいな感じで、「個人主義」も「自助自立」もすべて取っ払った、ケダモノのようなナマ白人のむき出しのわがままを周囲に垂れ流しながら、「困ったなあ困ったなあ」とやっている。周囲の人間が彼のために何か「特別の配慮」をするのが当然だというそぶりである。

この男にとっての「アジア」とははコレなのだということがわかる。

すなわち、彼にとってアジアは、彼が自国での教えられてきたあらゆる倫理規範から「自由」な、どんなむき出しもわがままも気まぐれも許されるルールなき天地なのである。ここでは自分のエゴをあたりかまわず自由に垂れ流してよいと思い込んでいる。彼は現代のゴーギャンなのだ。

私が、「椅子の下に詰め込め」と強く指図すると、気に入らないようだったがしぶしぶ従った。

誰かが犠牲になって自分の荷物を抱え込み、彼のために上の棚を空けてくれるのを待っていたのだろう。アジアでは、特に白人に対しては、そういう犠牲を進んで受け入れる人も少なくない。

  
その後に来て私と白人男との間の席に座った中年のアチェ人男が、また滑稽だった。白人の作り出したアジア人の典型を見るような気がした。

白人男が私の席に勝手に置いた荷物を、私が真ん中の席に移して自分の席に座ったのを見て、彼は白人男を責めるのでなく私を責めた。

この男はひどくなまっていたが英語を話す男で、毛唐のほうを向いてさかんに英語で話しかけた。50過ぎの中年男なのだが、中学生のようなハリキリぶりである。

毛唐のほうも好き勝手に言いたいことをいろいろ言っているようだったが、英語のネイティブスピーカーではないようだった。「観光か」とアチェ人が聞くと、毛唐は大威張りで「アチェに住んでいるんだ」と答える。ビジネスをしているようなことを言っていたが、かなり胡散臭かった。

しかし、やがて飛行機が離陸すると、この白人男は隣のアチェ男をまったく無視して本を読みはじめた。一言も話さなくなり、自分の世界に入ってしまった。

(白人が近くにいる他者を自分の世界から完全に度外できる心の技術には感心することがある。遺伝もあろうが、そういう訓練を子供のときから受けてもいるのだろう。しかしこれは日本の文化とは相容れない。日本人がそのマネゴトをしたら、ただの屑な中国人になるだけである)

アチェ男は完全に無視されてしまい、もう相手にしてもらえない。アチェ男がいくら目配せしたり、白人男の読んでいる本に興味を持つふりをしてみても、白人男のほうはまったく反応しなくなった。白人男はすっかり自分の世界に入ってしまったようである。

こうなるとアチェ男はどうしていいかわからない。今まで身も心も傾けて、全精力を集中していた相手にあっさりと身をかわされて無視されてしまい、どうやって座っていればいいかさえわからない風情であった。

しばらくは待機姿勢で白人男の方に体を向けていたこのアチェ男だが、やがて、やっぱりというべきか、突然これまで一顧だにしなかった私のほうを向き直って話しかけてきた。

内容は後進国の後進な連中から100回も聞かされてきた英会話である。早い話がネパール青年が茶店で話しかけてくるようなたわごとである。

「どこから来た」(お前に関係ないだろ)
「日本のどこだ」(東京も大阪も見たことのないお前にそんなこと答えてやって何の意味があるの?)
「アチェはビジネスか?ジャイカか?」(ジャイカ?知るかそんなもん。物見遊山だよ。お前みたいな馬鹿のツラを見物しに来ただけだ)
「どのくらいアチェに滞在するのか?」(だからそんなことお前に何の関係があるの?)
「あなたは英語ができるね。」(できないと思ったか?お前よりはましかもな)

私は紳士なのでこんな風には答えなかった。

こういう連中は何でもぺらぺらしゃべりたがるので、必要な情報を聞き出すには便利である。バンダ・アチェのホテルの事情を聞きホテル名などをチェックして、あとは無視しておいた。

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