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マラッカ航海日誌補遺

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「白人コンプレックス」論  美意識は先天的か

白人を「白人」として批判する主張に対しては、日本では必ず、直ちに「白人コンプレックスだ」という批判がなされるものである。

そのような批判の最大の特徴は、「一言で片付ける」ところであり、根拠を示すということはない。斜にかまえた特に背景のない単なる事大主義や、進歩主義的国際主義の潮流にのった形の事大主義によるものが多いと思うが、大人ぶった欧化保守・体制派保守の側から「たしなめるように」行われることもある。

いずれにしても彼らに共通しているのは、「それは白人コンプレックスだよ」の一言ですべてが「片付けられる」という「確信」であるように思う。そう批判された側の多くも「片付けられた」ような形になって沈黙することが多い。

「白人コンプレックス」論者たちには、「白人コンプレックス」という言葉を出しさえすれば直ちに了解される確固としたある共通認識が、お互いの間にあるかのような確信があり、それゆえに「白人コンプレックス」の一言が相手の「弱み」をつくと同時に、自分はその「弱み」を知っているということを相手に示すことによって、相手を沈黙させられると思い込んでいるかのようである。

たいていの相手はその「確信」の強さによってまずもって沈黙させられるであろう。

ここではそのような「確信」がどこから来ているのか、その基礎に何があるのかについて考えてみたい。

日本書本屋に並んでいる書物を立ち見していると(私は日本語本を買う金もなく図書館もない旅行者である)、「白人に対する劣等意識」と「アジアに対する蔑視」とを軸として近代日本人論を展開する「学者」さえもいるようだが、これらの「白人コンプレックス」論に共通しているのは最初に述べたとおり、その根拠が何も示されないことである。

つまり「白人コンプレックス」論者にとって、「日本人の白人コンプレックス」は論証の必要がないと考えられている。この「事実」は論証の必要がないほど明白な、批判者と被批判者との間に共通の感覚だと考えられているようである。

また、「日本人」が「白人コンプレックス」を持つということを論ずる必要のない当然の前提だというのであるから、彼らにとっては、「日本人」という範疇も無前提的に与えられているということになる。

民族主義を批判したり(民族や国家国民などという括りに意味はないといったり)、「日本人の日本人論好き」を揶揄したりする者が、さらっと「日本人の白人コンプレックス」を前提にしたりするのは奇異であろう。

このようにみてくると、どうやら、「白人コンプレックス」論は、日本を「ムラ社会」と信じている論者が、その「事実」を受け入れた上で、自分自身もその「ムラ人」の一人として、「日本ムラ」の常識・共通認識を指摘してくれているものであり、それゆえ、あえて根拠を示す必要がないということのようである。つまりそれは、「どうせお前もオレと同じ・・・」という形式の指摘であるからである。

要するに、「白人コンプレックス」論は、何よりもまずその論者の無条件的な「白人コンプレックス」の告白であり、それが大変卑近卑俗なものであるがゆえに、すなわち、「自分もそうだからお前もそうに違いない」という幼児的な理屈に全面的に依拠したものであるがゆえに、根拠を示すに及ばないのである。

では、どうしてこのような無条件的な「白人コンプレックス」論を生むほどの、確固不動の「白人コンプレックス」の共通認識が、彼らの属するところの「日本ムラ」を捉えて離さないのだろうか。

この「日本ムラ」においては、先に述べたとおり、あらゆる「白人」批判は「白人コンプレックス」の一言で片付けられるーーーーこの機能から見る限り、「白人コンプレックス」論は「白人」を利するものであるから、その基礎にある「白人コンプレックスの常識」を「日本ムラ」に設置したのは白人自身だと考えるのが合理的であろう。

そうだとしても、いったん設置された「白人コンプレックスの共通認識」は、相対的に独立し、独立に機能し、独自の論理構造を構えるに至っていると思われる。

その構造の中核にあるのは何か。

私はやはり、絶対的な「負け」の論理であるように思う。すなわち、「結局、白人にはかなわないよ」という無条件の命題である。その命題を受け入れてしまうような理屈抜きの「諦め」の感覚が、彼らのムラを支配しているように見える。

では、その「諦め」の感覚は何に由来しているのだろうか。その基礎にあるものは何か。

政治、経済、文化、学術、これらは、客観的に見てそれ自体では現代の日本人が「白人にかなわない」というべきものではないだろう。現実に、どうしても白人にかなわないのは軍事である。

しかし私は、彼らの「白人にはかなわない」いう感覚にとってより直接的で有力な基礎は「美」にかんする評価であるように思う。

端的に言えば、彼ら「日本ムラ」の日本人は、一般的に、「白人に容姿では決してかなわない」という「事実」を所与のものと考え、日本人の共通認識であると信じている。そして私は、この意識が陰に陽に、他のもっとマジメな分野にも影響を及ぼしていると思う。

たとえば、彼らは、日本の民主主義はまだまだ未熟であるとくどく主張するかもしれない。そのとき前提におかれているのは欧米の民主主義であるが、西洋近代民主主義の基礎は「近代的市民」であるという。「近代市民」とは、「近代的個我」の確立した、独立の人格を備えた実存的「個人」であると主張される。

これが未確立だから、日本の政治も経済も文化も駄目なんだという俗論は、根拠もないまますでに何十年も繰り返されていると思うが、政治経済を語るにはいかにも文学的な表象といわざるを得ない。

しかし同時に、この根拠のない俗論がある種の説得力を持ち、いまだに払拭されずに生き延びているとすれば、それはこの論が基礎におく「個人」という表象が「文学的」な表象であるからでもあろう。

この日本近代主義の提供する「個人」像は、ある種の甘美なビジョンを伴うのである。また伴わなければ機能しない。

われわれは偶像に関する禁忌を持つわけでもないから、容易にその「人格」の理想像を目に見えるようなビジョンによって想定することができる。

「近代的個我」にしても「自我」「個人」等々にしても、われわれはまずもってその目に見えるようなビジョンとしてのイメージを要し、それぞれに具体的な個人像のビジョンを描くことからはじめることにならざるをえない。

そこには必ず人間の「容姿」に関する理想型という要素が忍び込む。

そしてそれは「独立した個人」「個」「個我」といった甘美な表象にふさわしい立派な容姿でなければならないのだが、その立派さ=美の判断基準をわれわれの多く(日本人に限らない)は、人間の感性に先天的に与えられたものであるかのように考えていることが多い。

要するに、「彼ら」が、近代的個我とか人格とか個人とか、そういう言葉を聴いたり使ったりするときに前提として無意識に表象している人間像は、(市民法的な抽象的人格ではなく)実は、肉体を持ち「容姿」を伴う生きた人間のイメージなのであり、その容姿をあえていえば、それは決してモンゴロイド丸出しでもオーストロネシア系でもなく、少なくともコーカソイド的容姿でなければならないということになるのだろう。これは語られない前提ではないかと思う。

彼らが日本人は近代的個我に至っていないと理由もなく嘆くとすれば、それは実は、現実の日本人の肉体と実生活の視覚的イメージが、彼らに与えられたビジョンになかなか「追いつかない」(実は追いつきようがない)といって嘆いているに過ぎない。

結論を言えば、美意識、美の判断基準は「力」によって与えられた枠組みであると私は思う。しかしこの美の型は、いったん与えられてしまうと、それ以外の美はありえないように感じられる強力なものである。

あらゆる偏見の中でもっとも強固なものが、美に関する偏見である。しかし、否、だからこそ、美はいっそう政治的に機能し、また利用されるのである

ダ・ヴィンチ・コードがあれほど話題になっても、イエスが茶髪の白人にマグダラのマリアが金髪の白人に描かれていることに関する批評は、(少なくともマレーシアの英字紙で見る限り)まったく行われない。

(つづく)

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