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マラッカ航海日誌補遺

アユタヤ日本人町の衰亡

日本人はなぜ脆弱なのか。日本人は事実、海外で生命力の強い民族とはいいがたい。日本にいる限りは気にならないことだが、海外にしばらくいると気になってくることである。

日本人は外国に出ると過剰に現地に同化しようとする傾向を持つからだろうか。あるいは、日本人は他の民族に比べて血縁・血統を重んじることが少なすぎるからかもしれない。

中国人は辺境の地で一家族になっても子供に漢字を教え、氏族の祭祀を伝えて華人としての伝統を守っていることが多いようである。現地人を妻にしても氏族の系譜は伝える。

カンボジアで中国系カンボジア人の女の子に会った。シアヌークビル出身でポイペトのカジノで働いている子。クメールの血はまったく混じっていないような色白で、顔は日本人に近い。カンボジア国民としてカンボジアの教育を受けており、もちろんクメール語を話すが、自分の手帳に書いている文字は漢字ばかり。カンボジア名(少女漫画のような名前)と中国人名(林○雲)の両方をちゃんと持っている。クメール語、シナ語、タイ語、英語を駆使し、片言の日本語も話す。タイやマレーシアの中国人と違って人当たりがいいのはカンボジアの風土か。

海外で民族性を維持して生き延びる秘訣はこういう両睨みの処世なのだろうが、日本人には難しい技かもしれないと思った。

日本人はなぜ海外で脆弱なのかを考えてみると、在外日本人コミュニティの弱さ、日本人ネットワークの弱さもその原因のひとつであるように思われる。

在外日本人社会はなぜ弱いのか。これを考えるとき、アユタヤ日本人町の歴史はぜひとも参照しなければならない事例であろう。

教科書的な記憶では、徳川幕府が鎖国をしたので衰退に向かったということだったが、必ずしもそうではないようだ。


鎖国令を敷いたといっても在外日本人を日本に連れ戻そうとしたわけではない。むしろ帰ってくるなという態度である。だいいち日本に連れ戻しても食い扶持を与えることもできない。東南アジアで食い物に困らない生活に慣れてしまった人間を当時の日本に連れ戻すわけには行かない。

アユタヤの日本人町が焼き討ちされ「日本人大虐殺」が行われたのは1630年。

徳川幕府の鎖国令は、奉書船以外の渡航禁止(第1次鎖国令)。在外5年以上の日本人の帰国禁止。」が1633年。「外国船の来航を長崎に制限。日本人の海外渡航と帰国を禁止(第3次鎖国令)。」が1635年である。

1629年、アユタヤ君主・プラーサートトーンは王位に就くと、日本人勢力を牽制するために貿易を王室のみに許可する専制貿易を行った。ついでに、オークヤー・セーナーピムックであり、プラーサートトーンの即位に反対した山田長政を他の官吏の反発が強くなったのを見てナコーンシータンマラートへ飛ばした。

1630年には、官吏の業務怠慢により日本の貿易船がアユタヤからチャオプラヤー川を少し下ったところにあるワット・パナンチューン(仏教寺院)の前に強制停泊させられたままになるという事件が起こった。このままでは、日本の貿易船は出航ができず日本の貿易商は大きな損害を被る可能性があったために、日本人町の商人は大蔵省のシャイフ・アフマドにこれ抗議をした。この抗議は受け付けられず、逆上した日本人は兵を集めて(アユタヤ王朝年代記によれば600人だったという)王宮を占領しプラーサートトーンを人質に立てこもった。これに対しシャイフ・アフマドは日頃から日本人勢力の台頭に嫌悪を示していた華僑勢力や、兵部省のプラヤー・マハーアンマートなどに呼びかけ、義勇軍を結成し日本人を王宮から追い出した。日本人町については「謀反の動きあり」として、焼き払われ住民は虐殺された。

   
英語の日本ガイドブックなどを見ると16世紀の日本をChristian eraなどと表現していることがあり違和感があるが、この当時のシャム、アユタヤは世界中から海千山千のようなゴロツキが集まってきていたようである。

このシャイフ・アフマッドというアラブ人大蔵官僚もその一人。

少し時代がずれるが、コンスタンチン・フォールコンというのもいた。この人はほんとうに海千山千という感じ。こういう人の評伝を読むと山田長政など「一筋縄」のナイーブな役人に見えてしまう。

コンスタンティン・フォールコン (Κωνσταντίνος Γεράκης, Constatine Phaulkon, 1650年 - 1688年6月5日))は、タイアユタヤ王朝ナーラーイ王時代の政府高官。タイでは、官職名であるチャオプラヤー・ウィッチャイェーン (เจ้าพระยาวิชเยนทร) として知られる。妻は日系人マリー・ギマルド

イタリア人の父とギリシャ人の母の間に、1650年ギリシャケファリニーア島(あるいはケファロニア島)に誕生した。そのころの名前はコンスタンティノス・ゲラキス(Constantinos Gerakis)と言ったが、16才の時にイギリスへ渡り、フォールコンとイギリス風に姓の綴りを変えた。イギリスは当時重商主義政策を行っており、大型船を使った遠洋貿易が盛んであったが、フォールコンはこのときイギリス船の船員になり、英語を流暢に喋り、アジア各国を旅していた。

タイには1675年、25才の時に渡来した。当時のタイの王朝の首都・アユタヤでイギリス系の貿易会社・ジョージ・ホワイト商会(George White Company)の会計になり財産をためた後、自分自身で貿易を始めようと船を購入して遠洋に出た。しかし、あえなくもインドで難破した。そこでペルシャから帰国途中のアユタヤー王朝外交官と出会い、再びタイの地を踏むことになった。

アユタヤに再び帰ったフォールコンは、時のアユタヤ王・ナーラーイの歓迎を受けた。・・・・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%B3

日本人町焼討ち、日本人大虐殺を直接に行ったのはタイ族、華人、アラビア人などだが、首謀したのはやはりタイ族のシャム国王のようである。

1629年、アユタヤ君主・プラーサートトーンは王位に就くと、日本人勢力を牽制するために貿易を王室のみに許可する専制貿易を行った。ついでに、オークヤー・セーナーピムックであり、プラーサートトーンの即位に反対した山田長政を他の官吏の反発が強くなったのを見てナコーンシータンマラートへ飛ばした。

一方でプラサートトーンは、

内政面では、大蔵省を設置し、対外貿易政策として貴重品等は国庫に納めてから外国へ送られることになり、最大の輸出品目である米についても、王の許可を受けなければならないとし、タイの華僑に打撃を与えた

そして大蔵大臣にアラビア商人シャイフアフマドを登用し、華僑の勢力も抑えながらその華僑も利用して「日本人大虐殺」を敢行し、日本人の勢力をアユタヤから払拭することになる。

シャムの日本人コミュニティの成立の歴史は意外に古いようである。どういう人が集まったかは興味深い。

アユタヤ日本人町は14世紀頃に始まったと思われるが、日本の戦国時代には主君を失った浪人が流れてくるようになり、急激な膨張がみられるようになった。この傾向が特に強くなるのが関ヶ原の役大阪夏の陣などの後である。当時ビルマ(現・ミャンマー)・タウングー王朝からの軍事的圧力に悩まされていたアユタヤは、このような実戦経験豊富な日本人兵を傭兵として雇い入れることでこれを阻止しようとしたねらいがあり、これが浪人のアユタヤ流入を生んだ。

昔も今も・・・・という感じがしないでもないが、当時は少なくとも武士としての技量が買われたようである。

山田長政は日本人傭兵隊(クロム・アーサーイープン=日本人義勇兵局)の長「オークヤー・セーナーピムック」という官職を与えられてアユタヤ宮廷に入った。この官職自体、アユタヤ朝では結構な身分だったようである。

しかし、プラサートトーンの即位に反対して宮廷内の反感を買い、南部辺境のナコーン・シー・タマラートに飛ばされることになる。

なんで彼はそんなどうでもいい内政問題に口を出して墓穴を掘ったのだろうか。

プラサートトーンは臣下の出(臣籍)だから筋が通らないとか、そういう青いことを言い募ったのかもしれない。

「国王様マンセー」になってしまう日本人のもうひとつの落とし穴といえるだろう。

山田長政は南部に飛ばされてからも「国王様マンセー」で愚直にアユタヤ朝のために戦うが、結局、パッタニ侵略に使われた末、主君の謀により毒殺される。

長政は六昆(ナコーンシータマラート、Ligor)の防衛を理由にシーウォーラウォン(=プラサートトーン)によって左遷された。長政は1630年パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡。毒を塗られたのはカラーホーム(チャオプラヤー・カラーホーム・スリヤウォン=プラサートトーン)の密命によるものとオランダの史料は記している。その後、ナコーンシータマラートの知事は息子のクン・セーナーピムックが引き継いだが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、山田長政の死と同じ年に、プラーサートトーン(シーウォーラウォン)は「日本人は反乱の可能性がある」とし、シャイフ・アフマドら率いるアラビア人、タイ族、華僑の組織する兵によってアユタヤ日本人町は焼き打ちされた。

山田長政の失脚と日本人町の災難とは直結していた。

プラサートトーンはたんに山田を粛清したのではなく、華僑やアラビア人を利用して日本人勢力をタイから根絶やしにしたということになる。

日本人の勢力(武装勢力)は、ビルマとの争いの絶えないアユタヤ朝の権力構造の一部になっていたようである。

プラサートトーンは日本人勢力とその権益をタイの権力構造から完全に払拭することに成功したといえる。アラビア人などをうまく利用して華僑も抑えながら、他方で日本人勢力を無き者にしてしまう。

やはりこの陰謀の主役はタイ族だったということだろう。

アユタヤ日本人町のその後。

1632年には焼き討ちにより海外に逃れていた日本人400人程度が再び集まり、日本人町が再興された。軍事的・政治的な地位を失ったものの日本人は以前の貿易により培われた集積力を生かし、仲買商として働いたり、タイ南部で盛んに産出されたスズの取引などを行うようになった。その後、18世紀初頭まで日本人町は存続したと考えられているが、徐々にタイ族に同化し、ついには自然消滅したと言われている

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%83%A4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%94%BA#.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B7.E3.82.BF.E3.83.B3

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