一週間ぐらい前、時々利用するインドレストランでチャパティを食べていたときのこと。私はマレーシアではだいたいチャパティかナンが主食で、ご飯はあまり食べない(マレーシアの米はうまくない。インドネシアの米はうまい)。
そのレストランは店の中が衝立で二つに仕切られていて、衝立の奥の方のテーブルに白人のカップルの客がいた。
この辺のインド人の標準から見ても特に色黒のタミルムスリムの男がニコニコしてその白人客たちに給仕していた。おかずを取るのはセルフサービスが普通の店だが、彼らはいろんな皿をウェイターに持ってこさせていた。
そのタミルムスリムの男はいそいそとその客たちにアテンドしていたが、ひとつ野菜の皿を持ってくるときに衝立のこちら側でちょっと躓いて少し大きめの野菜を一切れ床に落としてしまった。汚い床である。
驚いたことにその男は床に落ちた野菜をすぐに拾い上げ、反射的に自分のズボンの腿の辺りでぬぐって、そのまま元の皿に戻した。そして何食わぬ顔で白人カップルに出していた。「ちょっとしくじったけど普通のことをやっている」という感じだった。
衝立が間にあったので客たちからはその様子は見えなかったと思う。
わざわざズボンでぬぐったのだから、悪気はなかったのだろう。そうすることできれいになるという観念があったのだと思う。
この男のズボンと床とどちらがきれいだったかについていえば、その床はマレーシアレベルでも相当汚い床だったので、何もしないで皿に戻すよりは確かにズボンでぬぐって皿に戻したほうが良かったとはいえる。
しかし、床に落ちた野菜は皿に戻さないで捨てるか掃いて捨てるのが一番良かったと思う。足が長くて体も分厚くてのろのろ動いていても誰もつぶさない大きなゴキブリが這っているような床である。あの店は夜は溝鼠が駆け回っていると思う。
何にしろ「人それぞれです」というのは常に妥当する真理で、誰も否定することはできない。しかしそれは、何もいってはいけないといっているのとあまり変わらない。
なにより国による違いは大きい。
人種民族によって違いがあることも確かだろう。
中国人が「汚な好き」なのはよく言われるが、マレーシアの華人が中国大陸本土の人間ほど汚な好きのようには見えない。といってももちろん日本人並みにきれい好きとは言いがたい。チベットはすごかった。招待所のトイレの壁にぬぐいつけた指の跡がいっぱい・・・・しかしあそこまで行くと低温と乾燥と酸素不足であまり汚くも感じない。
イスラムの教えは清潔を重視するというが、それは「前提」があってのこと。宗教のどんな教えも「待機説法」だと思った方がいいと思う。つまり「喩えを用いて語る」のにはいつも「理由」があるということ。
もっともイスラム教はマレー人のために生まれた宗教ではないので、マレー人を想定してはいない。しかしマレー人がイスラム教の清潔の教えに則っているかどうかにも疑問がある。
そして、インド人。浄と不浄の観念はヒンドゥの重要な要素であろう。ただそれは浄と不浄を厳しく峻別するということであって、相対的に浄とされた部分が客観的に見て、というかもっと世俗的に見て、「清潔」かどうか、つまり黴菌が少ないかどうか、ということとは関係がない。しかもカーストにおいてその存在自体が決定的に不浄とされてしまっている者は、自分の生活の中に浄の部分を求める理由さえ失っているかもしれない。
Author:Kuantan
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/
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